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パラオのマリちゃん
この物語は1990年代のパラオ諸島を舞台にしたフィクションです。
登場人物は架空の人々です。全8章
©2022 Kiyoko Ishii All rights reserved
目次
■一章 アイランドスタイル
・私の島
・ほんとうの家族
・家族の人数が変わる家
■二章 パラオの伝統儀式
・儀式の日
・お披露目
■三章 ユミコさんとの出会い
・おばあちゃんの買い物
・アワセミソの人
・偶然の再会
■四章 ユミコさんのホームステイ
・滝遊び
・海の森のごちそう
・シャコ貝と巨大ワニ
■五章 日本時代のこと
・パラオ語
・騒動
■六章 ピクニック
・パラダイスアイランド
・ユミコさんのピンチ
~ユミコさんの話し~
■八章 約束
・別れ
・神さまの芽
~あとがき~
■七章 無人島で
・漂流
・無人島漂着
・奇跡の火ダネ
・ユミコさんのケガ
・デレブ(精霊)の声
・助け船
■一章 アイランドスタイル
そのひと月の間ほんとうにいろんな事件が次からつぎへと起こった。
「生まれてこの方」なんて言い方をすると、うちのおばあちゃんみたいだけれど、私がこの島で生まれ育ってから、こんなにいろんなことがいっぺんにあったのは、はじめてだった。
私? 私はマリ。十二歳。正確に言えば一九八〇年八月生まれだから、もうすぐ十三歳。
え? 十三歳じゃあ「生まれてこの方」なんて言うのは十年早いって?
う~ん、そうかもしれない。でも、一年中同じような気候で、先月と先々月の区別がつかない静かな村の暮らしをしている私からすれば、そのひと月の間のことは何年たっても、何十年たったとしても…ううん、一生忘れられないくらいの出来事が、めまぐるしく起こったのだ。
何から話せばいいかなあ……。でもその前に、私の島と私の家族のことから話そう。物ごとには順番がある、と、よくおばあちゃんが言っているから。
●私の島
ここはパラオ諸島という南の島。熱帯で、ヤシの実やバナナやパパイヤが一年中実っている。青い海に白い砂浜、サンゴ礁やヤシの木がそこらじゅうにあるトロピカルアイランド。外国人がイメージする南の楽園ってとこだ。
パラオ諸島はロックアイランズと呼ばれる小さな島じま(そのほとんどが無人島なんだ)が何百もあって、ぜんぶ合わせて一つの国ができている。国名はパラオ共和国。隣村のおじいさんなんかは「ベラウだ」というけれど、みんなはパラオと呼ぶので、ここでもパラオと言っておこう。
最近はパラオもテレビでよく取り上げられるようになったから、知っている人も多いと思うけど、地球の位置でいうと赤道のちょっと北寄り。だから南半球じゃないよ。お隣りの国は、フィリピンやミクロネシア連邦。グアム島までは飛行機で二時間くらい。パラオからまっすぐ北へ三千キロも飛ぶと日本だ。パラオは日本の真南にあるから日本とは時差がないんだって。
私はパラオのなかでもいちばん大きなバベルダオブという島のアイライ村に暮らしている。バベルダオブ島はこのへんじゃあグアム島の次に大きい。島のほとんどがジャングルで、三百メートルくらいの山や丘があって、きれいな川が流れていて、観光客がわざわざやって来る大きな滝がある。それに国際空港も!
でも人口は、すごく少ない。
この国の人口は約二万人。そのうちの三分の一がここから車で一時間ほどのコロールの町に暮らしている。すごく小さな町に人口が密集しているのだ。
町にはホテルやレストランやスーパーマーケットやショップなんかがたくさんあって、ほしいモノはすぐに手に入るから便利だ。私が暮らす村には小さな雑貨屋が数軒しかないし、売られているものも、缶詰や缶ジュースや缶ビール、日用雑貨くらい。町の生活とはぜんぜんちがう。
だから学校の友だちはみーんな町の生活に憧れているみたいだけれど(みんな流行りのジェラートを食べたいのだ)、私はここの生活がそれほどイヤではない。もちろん、学校ではみんなの話に合わせるけれど、うるさい町よりも静かな村のほうがいい。
バベルダオブ島は、メインの道路をはずれると道はすぐガタボコになって、車もあんまり走っていないから、村のなかは静かだし(早朝は鶏が盛大に鳴くけどね)、お小遣いを持っていなくても、甘いフルーツは食べ放題だし。私が小さい頃から兄さんたちがバントウ(蛮刀)の使い方を教えてくれたので、お腹が空いて死にそうなんて思いはしたことがない。
それに、ここでは何かに守られている気がする。「何に」かは私にもわからないけれど……。
私の家は山の斜面に建てられている。父さん自慢の小屋「バンブーハウス」つきだ。
庭先から空中に突きだしたような高床式の小屋が家の先端に組んであって、そこからの眺めは最高!ジャングルの見張り台みたいで、とっても気持ちがいい。
バンブーを敷き詰めた床にパンダヌスを編んで作った壁、屋根はヤシの葉を何重にも重ねて葺いてある。何年か前の大きな台風のときには、屋根が飛んでこわれちゃったけれど、父さんはがんばってまた造り直した。
「こわれてもまた造り直せるとこがいいんだ」と言って。
眼下には大きな葉を広げたヤシの木が一面に広がっている。ところどころに広場みたいにぽっかりと開いた赤土の畑があって、その先はブロッコリーを敷き詰めたようなマングローブの森だ。鮮やかな緑のじゅうたんが岸に沿ってずっと遠くまで続いている。
スコールが降ったあとは格別なんだ。
雲間から顔をだした太陽がヤシの葉についた水滴に反射して、ジャングル一面がきらきらと光る。まるで、細かなガラス玉を散りばめたみたいに。遠くに見える海に虹がかかったら、ほんとハッピー!
雨上がりは、島がまるごと浄化されたみたいにさっぱりして、赤土と葉っぱと海風の匂いがする。その空気はすがすがしくて大好き。今はちょうど雨期だから、よくスコールが降るし、蒸し暑いし、蚊が多いけれど、私は乾期より雨期のほうが好き。滝遊びができるし、フルーツも豊富だし、それに飲み水に困ることがないしね。島で何が困るって水がないことだもの。
あ、水で思い出した! そろそろ家に戻って、母さんの手伝いをしなくちゃ。
雨どいの下に取り付けられているタンクから、バケツで水を汲んでお湯を沸かすのは、私の役目なんだ。
うちでは水道水のほかに、乾期でも水に困らないように、大きなタンクに雨水を溜めておくの。その水があれば、断水になってもタピオカや魚をゆでられるから。
そうそう、言い忘れたけれど、タピオカってイモの一種だよ。アジアのほうではキャッサバって呼んでいる島もあるみたい。姉さんが言っていたけれど、日本で流行したタピオカはまるいちっちゃな粒だったんだって? そのほうが私には驚き。
あとで母さんが畑からタピオカを抜いてくるはずだから、本物の形を見せてあげるよ。
●ほんとうの家族
さてと、家の手伝いが一段落したから、私の家族を紹介しなくちゃね。
ここではとりあえず「ほんとうの家族」と言っておこう。島のルールは外国とはだいぶちがうから。
私のほんとうの家族は、全部で八人。村じゃあ八人なんて大家族というほどじゃない。大叔母さんの家は、大叔母さんが亡くなる前は十一人いたもの。それに、村でいちばんの大家族は、うちのおばあちゃんと仲がいいハナコおばあさんの家だと思う。ちゃんと数えたことはないけれど、十三人はいるんじゃないかな、たぶん。
私の家でいちばん偉いのは、おばあちゃんだ。
威張っているという意味じゃなくて、島では年寄りが尊敬されているから。パラオは母系社会といって女性に権力がある島だから。おばあちゃんはなおいっそう偉い。
八十歳を超えている(らしい)けど、「ヨッコラショ」と言いながら、今も坂道を一人でのぼるし、毎日、畑に行って芋や豚の世話をしている。
えっ、どうして「らしい」がつくかって?
島の年寄りには、自分の年齢がはっきりわからない人がけっこういるからだ。うちのおばあちゃんもその一人。なぜかというと、昔は出生証明書なんてものがこの島になかったからなんだって。
今はだいたいの人は町の病院で子供を産むから、誕生日や両親の名前がきちんと記録されるけれど、おばあちゃんが生まれた時代は、村にあるお産小屋に寝泊まりして、お産婆さんが赤ん坊をとりあげたらしい。
「昨日、アイミリキのトルーんちに赤ん坊が生まれたそうだ。元気な女の子だそうだ」と、村の人が口々に伝えていけば、それが立派な出生の証明だった。
昨年、父さんが「うちのばあさんは今年で八十歳くらいだろう」と言っていたから、家族みんなで「じゃあ、おばあちゃんは毎年八十歳ということにしよう」と勝手に決めたのだが、本人もその提案にまんざらでもなさそうだったのだ。
父さんは家で唯一現金収入がある一家の大黒柱……だったのだけれど、今は休職中だ。その理由を話すと長くなるので、それはまた後でゆっくり話すことにするね。
母さんは一日じゅう、家族みんなの食事のしたくと、洗濯や掃除、畑仕事や豚の世話に追われている。私と弟が家の手伝いができる年になったので、少しはラクになったはずだけれど、それでも家族のなかで一番の働き者だ。あ、村のなかでも、かな。
私は四人きょうだいの三番目。
一番上の兄のベニートは、アメリカの大学を卒業して、そのままアメリカで暮らしている。大学で知り合った同級生と結婚して子供が二人。今年五歳のマイクと三歳のエミリーだ。
アメリカで生まれ育ったマイクとエミリーは英語しか話せないから、クリスマス休暇で兄さんが連れて帰ってきても、おばあちゃんと話しができなくて、二人もおばあちゃんももどかしそうだ。
私たちの言葉はパラオ語だけれど、学校で英語を勉強するから、若い人たちは英語も話せる。でも、うちのおばあちゃんのように、パラオが日本に統治された時代を生きてきた年寄りたちは、英語じゃなくて日本語の教育を受けた。だからおばあちゃんは日本語なら得意なんだけどね。
姉のナオミは、島のハイスクールを卒業するとすぐにハワイに働きにでた。活発な性格で、島にいたときから町の生活を好んで、ハイスクールへは町にある親戚の家から通っていた。
だからパラオに帰ってくると、「マリはハイスクールを卒業したら、ハワイ大学へ入ればいいわ。ハワイはすっごーくいいところよ」と、いつも言う。ハワイのオアフ島は、このへんでいちばん発展しているグアム島よりもずっと都会で、刺激的で、何でもあって、姉さんにとってはすごーくいい島なんだそうだ。
その姉さんは昨年、ハワイで一緒に働いていたポンペイ島(グアム島から飛行機で二時間のところにあるミクロネシアの島だ)出身のケリーと結婚して、赤ん坊が生まれたばかり。もうすぐ「儀式」のためにパラオに帰ってくる予定だ。
三番目はヒロシ兄さん。日本語学校の先生になるために今は日本に留学中。家族のなかで一番勉強ができて、おばあちゃんの期待の星だ。
その次が私。
自分で言うのもなんだけど、姉さんとは正反対の性格で、前にも言ったけれど静かな村の暮らしは嫌いじゃない。
それに、よくみんなに「マリは大人びている」と言われるけれど、それはおばあちゃんっ子だからだと私は思っている。だって、おばあちゃんと一緒にいると面白いもの。
私の下には十歳の弟タリイがいる。
タリイは、よその子より小柄なんだけれど、けっこう力があって頼りになる。我が家になくてはならない存在だ。なにしろ彼がいないことには、庭や畑にたくさん実っているヤシの実も、ビンロウの実も、誰も採れないんだもの。ビールが大好きでカエルのようにぷっくりお腹が膨らんでいる父さんは、とっくにヤシの木には登れない。
「若くてスマートだった頃は、村の誰よりも早く登れたんだぞ」と、ビール片手に自慢するけれど、私にはどうしてもその姿が想像できない。
というわけで、現在私の家に暮らしているのは、帰省中の姉たちを含めて全部で八人……のはずなんだけど、実際はもうちょっといるのだ。
●家族の人数が変わる家
昨年の十二月は、クリスマス休暇でアメリカから帰ってきた兄さんの家族四人と姉さんをあわせて、この家に十人が住んでいた。
年が明けてから兄さんの家族と姉さんが帰ると、入れ替わるように、いとこのトミーが暮らし始めた。
トミーは父さんの弟の三男で、グアム島でボートエンジニアの仕事をしていたのだけれど、人間関係がイヤになってパラオに帰ってきたらしい。自分の家に戻らないのは、ここのほうが肩身が狭くないからみたい。
そして、今はおばさんの子供たち二人も一緒に暮らしているから、えーっと、全部で八人家族だ。
私たちの島で「家族」というと、親ときょうだいだけじゃなくて、親戚までがふくまれる。つまり、いとこのトミーも家族同等。家族ならいつ誰がふらりと家にやってきて、キッチンにある物を勝手に食べようが、いつの間にかシャワーを浴びていようが、気ままに何週間も泊まっていこうが、誰もおかまいなし。そんなことで文句をいう人はいない、と言いたいけれど、私だけは文句を言う。だってトミーったら「ほら、フンドシだぞ。ジャパニーズスタイルだ」なんて、私のお気に入りのイルカのタオルを腰に巻いたりするんだもの。ハワイのお土産で大事にしているのに!
私だってもっと小さな頃は、親戚の家に何週間も泊まっていた。ナオミ姉さんはハイスクールに通った三年間のほとんどを親戚の家で暮らした。だから、おばさんの子供たちを私の家で預かっているのは、家族にとって当たり前なことなのだ。
母さんは私たちと同じようにその子たちをかわいがっているし、私も学校から帰るとすぐにベビーシッターに変身する。
夕飯の前の湯沸かし当番もあるし、庭で飼っている鶏たちにエサもやらなくちゃいけないし、これでもなかなか忙しい身なのだ。
でも私には頼もしい助っ人がいる。近くに住む私のいとこたちだ。
みんなは学校が終わるとうちにやって来て、遊びがてら子守りを手伝ってくれる。母さんが夕食のしたくをしている間、私をリーダーに、いとこたちと弟とで、幼い子供たちの面倒をみる。庭でなわとびをしたり、ビーチでブランコに乗ったり、近くのブッシュでオカガニを取ったり。
二歳の子供を自分の腰の上にのせて子守りをする姿はちょっと頼りなげだけれど、みんな一人前の母親代わりのつもり。
こうしてきょうだいといとこが一緒くたになって、幼い子供たちは私たちの腰の上で育っていく。
これが私たち家族のアイランドスタイル、もちつもたれつの関係ってとこかな。
おとなたちの話しもしなくちゃね。
といっても、私のまわりにいる「おとな」は案外少ない。前にもいったけれど、バベルダオブ島は人口が少ないし、うちの周囲にはいつものメンツ(親戚)しかいないからだ。そんな内輪だけれど、私がおとなたちがフツーにやっていることで、「いい」と思っているのは、物々交換だ。
政府機関や航空会社などで働いているおじさんたち、つまり、父さんの兄弟やいとこは、給料日になると赤ら顔で私の家にやってきて(いつもビールを一杯ひっかけてくるのだ)、大袋に入ったカリフォルニア米や、バドワイザーのケースを、気前よく玄関にドーンと置いていく(以前は、父さんがおじさんたちの家にそうしていたようだ)。すると、母さんはうちの畑や田でとれた、タピオカやヤムイモ、タロイモ、ビンロウの実、まだ青いバナナなんかをヤシの葉で編んだカゴにいれて山ほど渡す。
家族のなかで現金収入のある人が、年寄りや子供がたくさんいる家族に「町の物」を分配して、田や畑のある人が「村の物」をおすそ分けする。お互い助け合って自分たちができることを無理なくやっていく。これが私たちのやりかた。私が村の生活がいいと思うのは、こうした家族のつながり、アイランドスタイルが好きだからなのかもね。
■二章 パラオの伝統儀式
●儀式の日
今朝の我が家は慌ただしい。クリスマスとサンクス・ギビング・デーと、独立記念日がいっぺんにやってきたみたいだ。おばあちゃん得意の日本語で言うと、「盆と正月がいっぺんにきた」となる。
キッチンや庭の小屋には母さんの姉妹にあたるおばさんたちが十数人も集まって、数日前から仕込んでおいた料理の仕上げに大忙しだ。
「マリ、ちょっと手伝って。焦げないようにお鍋を見てて」
「マリ、タピオカをいれるボールを持ってきて」
「マリや、町で買ってきたアレはどこに置いたかねえ?」
「マリィ、私の黄色いTシャツはどこにあるの?」
と、も~う家のなかがひっくり返ったような大騒ぎ。あっちからもこっちからも「マリ」「マリ」って呼ばれて私はとうに目が回っている。母さんは何日も前からこんな状態で、声をかけるのも気が引ける。
何が起きているのかって?
今日はエラリウノス家(というのがおばあちゃんの氏族名だ)にとって、とーっても大切なパラオの儀式を行う日なのだ。
儀式を受けるのは、ナオミ姉さん。今日のために仕事を休んで、二日前にだんなさんと一緒にハワイから帰ってきた。今は観念した様子で儀式にのぞむ準備をしているが、この日がくるまで我が家はもう、もう、ほんとうに大変だったのだ。
順を追って話そう。
私たちの島国パラオでは、結婚して最初の子供が生まれると、女性(お嫁さん)の実家で伝統的な儀式と、生まれた赤ちゃんのお披露目をする。親族全員で誕生祝いをするのだ。
おばあちゃんの話によれば、この儀式(英語ではベビーシャワーとかホットシャワーとか紹介されている)ができるのは、お嫁さんとお婿さんの両方の家族が正式に認めて結婚した場合のみ。もし、親が反対した相手との間に子供が生まれても、儀式はやらない場合が多い。
儀式とお披露目の準備は、親族の女性が総出で手伝う。
氏族の地位が高いほど儀式に日にちをかけて、お披露目は盛大に行うのが島の習慣だ。
姉さんも本来は、儀式に七日、お披露目に一日をついやさなくてはいけないようだが、ハワイに住んでいるからしかたないだろうと、おばあちゃんや母さんたちはあきらめて、儀式の日にちをかなり短縮したみたいだった。
お披露目には、私の家と姉さんのだんなさんの親族が集まり、姉さん友人や近所の人たちもたくさん来る。合わせると百人くらいが駆けつける。そのぜんぶの人たちに飲み物や食べ物を振る舞って、おみやげまで持たせるのだから、我が家はてんやわんやの大忙し。私も何日も前からあれもこれもと手伝わされた。
おばあちゃんは「わたしのおばあさんもやったそうだ」と言っていたから、この儀式はずいぶん昔からパラオに伝わっているようだ。もともとは、子供を産んだ女性の身体を浄める意味らしい。
儀式には、島に古くから伝わる薬草や粉が使われる。黄色いターメリック(ウコン)や、レボットというパラオリンゴの葉や、川岸に生えているキシッドという草などなど。それらをおばあちゃんと一緒に、ジャングルや川へとりに行ったり、親戚の家からもらってきたりした。
「この薬草はね、島に病院がなかった頃から使っていた。民間療法って言って、こういう島でとれる薬でみんな病気を治していた」
おばあちゃんは薬草のことをほんとうによく知っている。お腹が痛いときには何を煎じて飲めばいいとか、背中が痛いときには何を塗ればいいとか、おばあちゃんと一緒に歩いていると、まるで屋外授業を受けているみたいだった。
「わたしらの子供時代には葉っぱや草や実が薬だった。煎じて飲んだり、削ったコプラと混ぜてしぼって身体に塗ったり、焼いて貼ったりね。今はもうアメリカの薬があるから、そんな薬を作る人も少なくなったねえ」
と、ケシールの葉を摘みながらおばあちゃんは言った。
隣村のハナコおばあさんは、今でも民間療法ができる数少ない古老だそうだ。私はそれを聞いてすごく合点がいった。ハナコおばあさんはどことなく魔女っぽいのだ。
儀式にはいろいろな薬草のほかに、削ったヤシの実の果肉もたくさん使うので、私は学校から帰ると、毎日毎日ココナッツ掻きをした。
ココナッツってヤシの木になる実だよ。
ヤシの実ってすごく変化するんだ。まだ緑色の若い実は、なかにジュースがたっぷり入っていて、内側についた真っ白な果肉はプリプリしたゼリーみたいに柔らかいけれど、実が古くなっていくと、なかの果肉はだんだん水分がなくなって、固くなっていく。父さんがビールのつまみにしているトーフが、おばあちゃんが好きなコーヤドーフに変身するみたいに。まるで別モノになるんだ。
私は先端にギザギザの歯がついたココナッツ掻き専用の椅子にまたがって、毎日ガリガリ、ガリガリと固い果肉をひたすら削った。けっこう力をいれなくちゃうまく削れないし、ずっと同じ姿勢だから、おとなたちは腰が痛くなると言うけれど、私はへいっちゃら。
学校で友だちと口ゲンカした日なんか、帰ってから力を込めてガリガリやると、けっこうスッキリするのだ。
私に課せられたノルマは毎日十個。三日間もやるとけっこうな量になった。ふーっ。
そうして薬草や削った白い果肉や、粉やオイルをたっぷり用意して儀式がはじまる。
まず、ナオミ姉さんがするのは、オムスールという儀式だ。父さんたちが裏庭にこしらえた囲いのなかで、母さんに薬湯をかけてもらう。
早朝から大きな鍋に、何種類もの薬草を煮出した薬湯が沸かされた。その間に姉さんは、ターメリックとココナツオイル(ヤシ油)を混ぜた黄色いオイルを全身にくまなく塗られる。オイルは身体を浄める意味と、薬湯で火傷をしないように塗るのだが、これがつるつる、ベタベタしてすごくやっかいなのだ。
オイルがついた手で触ったものは、すべて黄色に染まってしまう。紙も、お金も、電話も、服も。だからオマガッタが終わったあとは、家中のものが真っ黄色。
儀式に慣れているおばさんたちは、みんな黄色いTシャツを着ている。野球の応援チームみたいでちょっと面白いけれど、とても賢いと思う。
顔からつま先まで黄色いオイルで染めたら、いよいよオムスールのはじまりだ。
母さんと姉さんが囲いの中に入って、母さんがパラオリンゴの葉で薬湯をすくいながら、姉さんの身体にばしゃばしゃとかける……わけなのだが、一年中暑い島に生まれ育ち、水浴びしかしたことがない私たちには、熱い薬湯を浴びるなんてとんでもなく怖い。大切な儀式とわかっていてもオムスールは恐怖以外の何ものでもないのだ。
数年前にオムスールをした母さんの妹の娘は、湯気をたてた薬湯を心底怖がって、それをかけようとした瞬間に、「きゃっああああ!」っと悲鳴をあげて、すっ裸で囲いのなかから逃げ出したという。
悲鳴のあとから娘を叱るおばさんの怒鳴り声が重なり、それを家のなかで聞いていた妹たちは顔がひきつっていたそうだ。
勝ち気でおてんばな姉さんでも、オムスールは怖いみたいだ。すでに囲いのなかで「きゃー、熱い!」「母さん、もういいわっ。もういい」と、ぎゃーぎゃーわめき散らしている。
じつは、儀式をやる前の話し合いの場でも、姉さんは「オムスールは一回でいい、お披露目の朝にやる」と繰り返していたのだ。
それにもう一つ。姉さんが最後まで話し合いの場でごねていたことがある(姉さんは、オムスールよりも、こっちのほうがほんとうにイヤだったんだと私は思っている)。
昨晩、おばあちゃんと母さんとおばさんを相手に、姉さんが声を張り上げて抵抗していた。
「誰が何と言おうとイヤッ!ブラをつけるならいいけどトップレスなんて絶対にイヤよ。そうじゃなかったらお披露目なんて、ぜーったいにやらない!」
気が強い姉さんに、おばあちゃんも母さんも、おばさんも困り果てた顔をしていた。
私もそのときはじめて知ったのだが、おばあちゃんの家系では、正式には氏族を表す髪飾りやコシミノをつけて、上半身はトップレスでみんなにお披露目するのがならわしなんだそうだ。
「昔は島の女たちは、みんな胸を出してコシミノを着けて暮らしていた。だから、その姿は決して恥ずかしいことではない」というのがおばあちゃんの言い分だった。
確かに、島の習慣では女性が見られて恥ずかしいのは胸ではなく、腰から太ももにかけてだ。
しきたりを重んじる村では、膝丈までのスカートかズボンをはいているし、おばあちゃんもそういうことにはとても厳しい。ただ、町では最近はそんな習慣は古くさいと考えられているのか、ショートパンツをフツーに履いている。イベントで水着コンテストもやっているくらいだ。
ハワイで生活している姉さんからすれば、太ももを出すのはもう恥ずかしくないが、トップレスは恥ずかしいという外国の感覚になじんでしまったのだ。ま、当然だけれど・・・。
「ナオミはハワイに住んでいるから、ほんとうは七回やるオムスールを一回しかできないのはしかたがない。でも、儀式とお披露目をやらないわけにはいかない。絶対にいかない」と、おばあちゃんも家柄とオンナの意地を発揮して、かたくなに引かない。
母系社会で、しかもこのテの習わしに一切口出しができない父さんは、隣のリビングでバスケットの試合を観ている(フリをしている)。
私にはわかっていた。
父さんの視線はテレビに向いているけれど、耳はダンボになっていて、この戦いの一部始終を聞いているのだ。だって、相手チームがダンクシュートを決めても、いつものように「オーマイ!」「シッ、バカヤロウ」って叫ばないもの。
姉さんと母さんたちは、何時間もケンケンガクガクとやり合っていたが、私の眠けがピークに達した頃、ついに、コンつきはてたのか、あきらめも肝心と思ったのか、最後に折れたのは、おばあちゃんだった。
「ナオミ、もういい。もうわかった……だから、アンタはチチバンド(ブラジャー)をしてでもやりなさい」と、おばあちゃんは言い放った。おばあちゃんの目にはうっすらと涙がにじんでいた。
それで姉さんはようやく首を縦に振った。
女性だけしか立ち入れない儀式、つまり、全裸で行うオムスールや、蒸し焼きにした薬草の蒸気をまたいで身を清めるオマガッタの後に、コシミノとパンダナスで編んだブラを着けてみんなの前に立つ、ということで、おばあちゃんたちは譲歩した。
その晩の抗議合戦を横で一部始聞いていた私は、これまで氏族のならわしにのっとって、儀式を正式にとり行ってきたというおばあちゃんが、ちょっと気の毒になったが、私も儀式をするときになったら、きっとナオミ姉さんと同じことを言うだろうなと思った。だって、男ともだちや大勢の人の前にトップレスで立つのは、やっぱりすごく恥ずかしいもの。
●お披露目
早朝からとりかかった一連の儀式が終わると、伝統衣装を身につけたナオミ姉さんが姿を現した。いよいよお披露目のはじまりだ。
カラフルな色のコシミノに、上半身はパンダナスで編んだブラジャーを着けている。首にはエリンノス家の家宝のウドウドが存在感たっぷりに掛けられていた。
ウドウドというのは、パラオの伝統的なお金(とても価値のある石だ)で、たいていはネックレスにしている。
結納や儀式のときに母から娘へと代々受け継がれるようで、おばあちゃんが言うには、高価なウドウドを持っている家は、位が高い氏族や名士に多いそうだ。パラオ人の名士の男性と結婚すると、だんなさんのお母さんからもウドウドをもらうしきたりがある、と。
姉さんのだんなさんはポンペイ島の人だから、ウドウドなんて持っていない。今日姉さんが着けているのは、おばあちゃんのウドウドだ。もちろん、私や妹がおしゃれで着けているような偽物じゃなくて、正真正銘の本物だ。
おばあちゃんは一つ一つの石に名前がついているという、すごく高価なウドウドも持っている。
前に父さんが「ばあさんのあのウドウドは、島も買えるんだぞ」と言っていたが、それがほんとうのことなのか、父さんの冗談なのか、私には未だにわからない。でも、おばあちゃんがうやうやしくウドウドを手に持ってくると、それはほんとうに島も買えるように見えてしまうから不思議だ。
それに……もう一つ不思議なのは、おばあちゃんのあのウドウドは、いったいこの家のどこにしまってあるのかということだ。一度父さんにたずねてみたが、知らないというか、知ってはいけないことみたいだったから、きっと、おばあちゃんと母さんだけの秘密の場所なのだろう。やっぱりこの国はオンナが強い!
「マリ、そこできょとんと見ていないで、早く私の額の汗を拭いてよ。オイルが目に入って痛くてしかたないわよー」
地面に敷かれたヤシのマットの上に裸足で立ているナオミ姉さんが、半べそをかきながら目をしばたたかせて言った。見ると、顔ぜんぶにオイルを塗ってあるせいで、額から玉のような汗がこぼれ落ちている。
右手にパラオリンゴの葉を一枚持ち、左手は右肘に添えた格好のナオミ姉さんは、お披露目の間しばらくは、その姿勢で立っていなくてはいけないらしい。いつも気が強い姉さんも今日だけはカゴのなかの鳥のようだ。
私がニヤニヤしていると頭上から姉さんの鋭い一声が落ちた。
「あんたもそのうち、これをやらされるのよっ!」
庭に設置されたテントのなかにでーんと置かれた巨大スピーカーから、リズミカルな曲が流れはじめた。いよいよ、お披露目のクライマックスだ。
それまでテントのなかでおしゃべりをしていた親戚が、次々に席を立って、頭上で手をひらひら返して踊りながら、姉さんのほうへ近づいてきた。
手に握られているのは、一ドルや五ドルや、十ドル紙幣。
そうそう、言い忘れたけれど、パラオの通貨はアメリカドルなのだ。
姉さんの前に立ったおばさんは、曲に合わせて腰を振りふり、ちょっとエッチなことを口ずさみながら、大声で笑って姉さんのコシミノに紙幣を挟んだ。
次のおばさんも、その次のおばさんも、おじさんも、めいも、おいも、姉さんの同級生たちも。みんなが次から次へとやってきて、姉さんの前で踊り、出産祝いの紙幣を黄色いオイルでべとべとの身体に張り付けていく。
庭では特別に招いた歌手のマーシーが、シブい声で日本の演歌というのを歌いだした。
パラオには日本語がわかる年寄りがたくさんいるから、パーティーでは日本の演歌が好んで歌われる。パラオのFMラジオ局でもよく演歌特集を流していて、うちのおばあちゃんも、隣村のハナコおばあさんもそれを楽しみに聞いている。
「しらバカ~、あおぞぉら、みいなぁ~みぃかぁぜ~……」
あ~あ、マーシーったら、またお得意の十八番がはじまった。
日本語がわかる年寄りたちは、その名曲がほんとうは「白樺、青空、南風」だと知っていて、げらげら笑いながら一緒にのど自慢をする。
ビールを高々と掲げて陽気になっている父さんも、声を張り上げて歌っている。その横で赤ん坊を抱いた姉さんのだんなさんが、そんな父さんを見てにこにこしている。
テントの後ろに目をやると、ここ何日も儀式の準備で眉間にシワが寄りっぱなしだった母さんも、おばあちゃんも、黄色い軍団のおばさんたちも、みんな顔をくしゃくしゃにして笑っている。
私も目が回るほどの毎日だったけれど、こうしてみんなに祝福されている姉さんを見ると、儀式もまんざら悪くないかな、という気になってきた。村には古いしきたりも多いけれど、姉さんの出産をみんなが心からよろこんでくれる姿を見るのも、離れて暮らす家族の幸せな顔が見られるのも、とってもうれしい。
こうしてこの日のお披露目パーティーは延々と続いた。
気が付けば、東の空にはすでに一番星がピカリと光っていた。笑いの渦がその星まで届きそうな夕暮れだった。
■三章 ユミコさんとの出会い
●おばあちゃんの買い物
おばあちゃんが「味噌汁が飲みたいねぇ」と言うので、町のスーパーマーケットへ日本の味噌を買いに出かけることになった。
おばあちゃんは昔この島にたくさんの日本人が移住してきて、コロールに日本街があった時代を知っている。隣村に住むハナコおばあさんと会うと、おばあちゃんは堰を切ったように昔話しに華を咲かせる。戦争が始まる前の、まだ暮らしやすかった日本時代のいつもの話しだ。
おばあちゃんとハナコおばあさんの会話はパラオ語だから、横で聞かされている私にもわかるけれど、ハナコおばあさんの家にときどき住んでいるタマグおじいさんが加わると、会話はぜんぶ日本語になる。私は学校で日本語も勉強しているから話しの内容は少しはわかるんだけど、それでもおばあちゃんたちの話にはついていけない。
え、どういう意味かって?
パラオの言葉は少し複雑なんだ。
タマグおじいさんはパラオの隣の島(と言っても飛行機で1時間かかるけど)のヤップという島の人だから、パラオ語はあんまりわからない。パラオはパラオ語、ヤップ島はヤップ語、ポナペ島はポナペ語と、このへんは島ごとに言葉がちがうから。でもおばあちゃんたちは日本時代に覚えた日本語で、ヤップ島の人ともポナペ島の人とも話ができるというわけ。もちろん年寄り同士だけだけどね。
そしてパラオ語には、日本人が聞くと必ず笑う(どうしておかしいのかは私にはわからない)日本語がそのままパラオ語になっている。
だからおばあちゃんたち三人の話を聞いていると、コロールのどこかのアパートのニカイ(二階)の住人が、マドシメレイ(窓閉めろ)していなかったから、ドロボ(泥棒)に入られた、というような話をしている……のだろうと、想像しながら聞いている。
いつだったか、親戚の家から帰ってくる途中で、ムスビ(おむすび)を買って帰ろうと港の近くにあるガソリンスタンドのストアに寄ったときのこと。
おばあちゃんが「マリ、ちょっと私はベンジョ(便所)に行ってくるから、このベントー(弁当)をタリイと車に運んでおくれ。ダイジョーブ(大丈夫)だろ」と私に言ったとき、そのストアで買い物をしていた若い女の人たちが、おどろいた顔でいっせいにこっちを見て、そのあと仲間と顔を見合わせて、「便所?」「弁当?」と、クスクス笑っていた。
その様子を見て、私は『ああ、この人たちは日本人なのか』と気づくのだ。
町へ行くとそんなことがよくある。
おばあちゃんは、ミソやショーユ、ノリマキ、ムスビ、トーフや日本のオカシなんかを今でも好んでいる。ときどき、白玉入りのオシルコや、カリントウといった日本の甘い物をなつかしがってとても食べたがる。だから年に一度の日本人会主催のお祭りを、おばあちゃんはとっても楽しみにしている。
そのおかげで、おばあちゃんから作り方を受け継いだ母さんの巻きずしは、天下一品だ。甘くてショーユ味のいなりずしも好き! あと、ストアで売られているいろんなオカジュがはいったベントーも大好き。ただ、日本の黄色いピクルス?のタクアンは苦手だけれど。
……そうだ、話を戻そう。
その日、(運悪く)家でゴロゴロしていたのはトミーだけだった。
私たちの島は前にも話したように母系社会で、しかも年長者を敬う。だからおばあちゃんの言いつけは絶対服従だ。
普段ならおばあちゃんの買い物は、近くに住む親戚の誰かが付き合うことが多いのだけれど、この日は寝坊して釣りに行くタイミングを逃してしまい、リビングでテレビを観ていたトミーに、おばあちゃんの一声が飛んだ。
「トミーや、ちょっと町まで行ってくれないかい」
こうなると、いとこだろうが、はとこだろうが、家族であればおばあちゃんを車に乗せて町まで行かなくてはならない。
母さんの買い物の言いつけには、みんなひとつ返事でついていく。誰だって町での買い物は楽しいし、町へ行けばたいてい誰かしら友だちに会える。学校で話題になっているアクセサリーだって見れるし、母さんの機嫌がよければそれを買ってもらえることもある。
だが、おばあちゃんを連れて行くとなると、話しは別だ。
家から町まではゆっくり走っても車で一時間はかからない。舗装されていないがたぼこの悪路を下ってしまえば、アメリカの援助で整備されたアスファルトの道路が開通しているからだ。
しかし、おばあちゃんを乗せていると、
「おおい、ちょっとそこのヨロンの家に寄っておくれや」
「のどが渇いたから、あそこの店でジュースを買ってきておくれ」
「今日はテルコさんは、村にいるかねえ」と、とにかくあちこちで寄り道をして、立ち寄った先々で、ビンロウの実を噛みながら延々と長話しを始めるのだ。
以前、まだ結婚したてのナオミ姉さんが、だんなさんのケリーを連れてハワイから帰ってきたときのことだ。
ケリーはポナペ語と英語しか話せないから、パラオ語と日本語のおばあちゃんとはジェスチャーで意思疎通をはかっていた。というか…人のいいケリーは、一方的におばあちゃんに従わされていた。それにあの頃はまだ我が家のルールやパラオのシューカン(習慣)にも慣れていなかった。
そうして町へ出かけたおばあちゃんたちが帰宅したのは、とっぷりと夜のとばりが降りてからだった。
あのときは、家でさんざん心配していた母さんが、珍しくおばあちゃんに小言をいった。
「おばあさん、白玉粉を買いに日本まで行ってきたの!」
そんなわけだから、私は普段はおばあちゃんの買い物にはついて行かないのだが、その日は一緒に行くことにした。
日曜は村の商店は閉まっているし、ヨロンじいさんは先週からペリリュー島へ出かけていて留守だという情報をキャッチしていたからだ。だったらおばあちゃんの寄り道はいつもより少ないはず、と考えたのだ。
●アワセミソの人
数年前に、コロールの町の交差路に信号機が設置されたのだが、しょっちゅう壊れている。とくに台風のあとは、信号機というより電線にひっかかったゴミ箱みたいになっている。
平日の朝夕は、一本しかないメインストリートは大渋滞するから、警察官が交差点の真ん中に立って交通整理をしているのだが、それがまた渋滞を引き起こす原因になっていると、島の人たちは文句を言っている。道がない町に車の数が多すぎるのだ、と父さんもぶつくさ言っていた。
島の人たちは、新車に目がない。
頭金ほどのお金が入ると、すぐに銀行でローンを組んで新車を買う。町の親戚の家にもぴかぴかの新車が3台も止まっている。「通勤に必要だから」と言って、いとこたちが一台ずつ親に買ってもらったみたいだ。しかも屋根つきの日本の自家用車だ。私の家のように、荷台にたくさん荷物を積んだうえに、家族全員が乗れるピックアップトラックがいちばん便利だと思うのだが、町には町の、いとこにはいとこの生活があるようだ。
私の予想通り、その日はいつもよりスムーズにコロールの町へ到着した。
繁華街にあるWCTCは、島でいちばん立派で品ぞろえがあるスーパーマーケットだ。一階は食料品と日用品、二階に衣料品などが売られている。
食料品の多くはよその国からの輸入品だ。アメリカ、日本、韓国、台湾、中国、オーストラリアなど、さまざまな国から船で運ばれてくる。
WCTCのように買い物客がたくさん来る大きなスーパーマーケットなら問題ないのだが、小さな商店あたりだと、人気がない商品は長い間棚に陳列されたままだから、気をつけないといけない、と母さんは言う。前にあんまり買い物に行かないおじさんが買ってきた粉はセメントのように固まっていたもの。
WCTCには、日本食専用コーナーもある。
パラオは日本からダイバーがたくさんやってくる島で、ダイビングショップやホテル、日本食レストランなどの観光業に従く日本人が二百人以上住んでいるそうだ。だから日本食はかなりの品ぞろえだ。私の家でもよく使うショーユやノリ、カンピョウ、紙パックのトーフのほか、奇妙な絵が描かれた袋詰めや、一体何に使うのか想像もできないドライフードなんかが棚に並んでいる。
おばあちゃんは棚の下のほうにあった味噌の袋を手にとって、しばらく裏面の表示シールをじっと見つめていた。おばあちゃんは、日本のひらがなやカタカナ、簡単な漢字くらいなら読めるのだ。
が、そのときは、なぜか眼鏡の奥から私たちを上目づかいに見て、「今日はいつものミショが置いてないねえ。このミショでいいのかねえ」と、半信半疑な顔で自分に問うようにつぶやいた。
パラオのイモや魚やフルーツなんかのローカルフードと、USビーフやチキンやハンバーガーなんかのアメリカンフードで育った私とトニーが、日本の味噌のことなど分かるわけがない。トニーと私も困り顔で、おばあちゃんと味噌と、お互いの顔を何べんもみていた。
と、そのときだ。
日本食コーナーに買い物かごを提げた一人の女性が近づいてきた。
ショートヘアに日焼けした顔、プルメリアの花のイラストが描かれたTシャツにひざ丈の黒いパンツ、パラオじゃ見かけないオシャレなビーチサンダルを履いている。
一見すると島に住んでいる日本人のようにも見える。けれど私たちの目からは日本人と中国人、韓国人と台湾人の見分けがつかない。パラオにはそれらの国々から大勢の観光客がやってくるし、住み着いている人も多いのだ。
私とトミーはその女の人の一挙手一投足を、横目でちらちらと見ていた。
彼女はノリの袋を手に取って、じーっと検分するみたいにパッケージの表示を見ていた。
「ほら、日本食コーナーにきたんだからさ、日本人だろうよ。ばあちゃん、あの女の人に聞いてみろよ」
トミーがささやいた。彼は自分から声をかける勇気はないらしい。
おばあちゃんは少し迷っていたが、味噌汁が飲みたい一心だったのだろう。意を決してその日本人とおぼしき女性に声をかけた。
「これは、アカミショですか?」
突然降ってきた日本語に、彼女は一瞬ぽかんとしたが、私たち三人のすがるような顔つきを見て、すぐに状況を察したのだろう。
「アカ、ミショ?」と聞き返しながら、おばあちゃんが差し出した味噌の袋を受け取って、彼女は裏の表示シールに目を通した。
そして数秒後、歯ぎれよく答えた。
「これは、ア・ワ・セ・ミソですよ」
「……ア・ワ・セ・ミショ?」
今度は、おばあちゃんがぽかんとする番だった。
おばあちゃんにはアワセミソというのがどんな味噌なのかわからないようだった。おばあちゃんがほしいのは、あくまでアカミショなのだ。
また同じ質問を繰り返すおばあちゃんに、その女の人は困り顔で、
「う~ん、アカミソも入っているけど……。あのね、おばあさん、アワセミソっていうのは、アカミソと、シロミソを混ぜたものだから、アカミソとおなじように、お味噌汁なんかに使えるものよ」
と、ひとことひとこと区切りながら、ゆっくりと日本語で答えていた。
それを聞いておばあちゃんは、ようやく合点がいったようだった。
日本流にていねいに頭を下げて礼をいった。
「ありがとうごじゃいます」
その、アワセミソの人こそが、ユミコさんだった。
●偶然の再会
今思えば、私とユミコさんは目に見えない何かの力で引かれていたのだと思う。だって、町で一度会うくらいなら誰だって経験がある。なんせ小さな町なのだから。私が見えない力を感じたのは、翌日にまたユミコさんに会ったからだ。しかも、再会した場所は、パラオの伝統的な建物アバイの前だった。
私とタリイは、おばさんの子供たちを連れて、村のなかにあるアバイのまわりで遊んでいた。
アバイというのは、パラオにずっとずっと昔からある集会所だ。首長や村長、村の男たちが話し合いをしたり、ときには合宿したりするための建物で、木と木を組み合わせた柱やハリでできていて、釘を一本も使わずに建てられている。屋根はもちろんヤシ葺きだ。
昔は、アバイは各村ごとにあったらしいけれど、今はパラオ全体でも四棟だけしか残されていない。そのうちの三つが私が住んでいるバベルダオブ島にある。
ほんとうは島のしきたりで、女や子供はアバイに入ってはいけないのだけれど、建物のなかで静かに遊んでいるぶんには、ほとんど怒られることはない。
それでも私は決してアバイのなかには入らない。しきたりを守っているわけじゃなくて、ちょっと言いにくいのだけれど、じつは……私はアバイが怖いのだ。
この話は、これまでおばあちゃんと母さん以外にはしたことがない。父さんに言ったらきっと一笑されるだろうし、トミーなんかじゃあバカ笑いするに決まっている。だからこの話は家族のなかでもオンナ三人の秘密にしてもらっている。
十歳だったろうか。
近所の友だちやいとこたちとオニごっこをしていて、アバイの中に隠れていたときのことだ。
アバイは四方六か所に吹き抜けの窓があって、風が抜けるように造られている。四角い小さな出入口と窓だけなので、なかは昼間でも薄暗く、あんがい涼しい。大人だと身をかがめなければ入れない出入り口は、明るい外部と暗い内部の境界みたいに感じる。そしてアバイの中は、独特の匂いがする。
その日、私は見つからないようにアバイの中の端っこに身を低くして隠れていた。オニがこっちに来たら、逆の出入り口から外に逃げようと考えていたのだ。自分で言うのもなんだけれど、私はすばしっこいから、そうそうオニにつかまることなんてない。
はじめ、それは風の音かな、と思った。
私が一人でアバイのなかでじっとしていると、どこからか、ざわざわした低い声のような音が聞こえてきた。遠くから海鳴りが聞こえてくるみたいに、それは次第にたくさんの人間の声となって、地から湧いてくるように聞こえてきた。年老いた男たちが、ぼそぼそと話し合っているような、しゃがれた声が幾重にもなって、私のまわりの空気をざわざわと震わせた。
ぞっとした。それまで聞いたことがない声だった。
夜中にトミーと一緒にこっそり観る、ホラー映画の怖さとはまったくちがう。物心がついた頃から這いずり回ってよく知っている、いつものアバイにいるのに、突然知らない世界に落ちてしまったような奇妙な感覚に囚われた。それは初めて体感する恐怖だった。
私はあまりの恐ろしさに、アバイの窓から転がり落ちるようにして外に出た。
あのとき、青い顔をして(いたらしい)家にすっ飛んで帰り、すぐさまおばあちゃんにその恐ろしい体験を一部始終話した。どんな声だったのか、どんな感じがしたのか。私の話はしりめつれつで、さすがのおばあちゃんも何を言われているのかわからなかったようで、初めはけげんな顔をしていた。
少しして私が落ち着くと、おばあちゃんは目を細めて、
「マリは霊感が強いんじゃよ。きっと、ご先祖様がアバイで話し合いをしている声を聞いたんじゃろ。マリはそのうちに神様と話しができるようになるよ。ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ」と笑って私をからかった。
あれ以来、弟たちのオニごっこに付き合っても、私はアバイの中には絶対に入らない。隠れるところが少なくて、すぐに見つかってしまうのがくやしいのだけれど。
「おねえちゃん、みーっけ!」
タリイがニタニタ笑って私を指さした。
「ん、も~う、子供の遊びに付き合ってあげてるんだからね!」
私は弟に向かってくやしさをぶつけたが、弟はそれには応えず、なぜか小道のほうを見つめていた。私もそっちに視線を向けると、
「あっ!」
「あらあ、昨日のコ・・・でしょう?」
そう言いながらにこにこ笑って広場を歩いて来るのは、昨日、WCTCで会ったアワセミソの女の人だった。
「偶然ねえ。この近くに住んでいるの?」
「あ、は、はい」
この村のアバイは一応は観光名所の一つになっているが、ここまで足を延ばす観光客はあまりいない。みんなコロールの町に移設されたアバイを見に行くからだ。だからここは一年中静かだし、外国人もあまり見かけない。
「昨日の、あのおミソでだいじょうぶだったかしら?」
「あ、ええ、はい」私は緊張してしまった。
タリイは私の背後に隠れてもじもじしている。
アワセミソは、私と弟の顔を交互に見てから、ちょっぴりおかしそうに笑った。
「弟さん?恥ずかしがりやなのね。それにしても、ここはとても静かないいところね。あれがアバイね?」
そう言ってアワセミソは、昨日と同じステキなサンダルで石の道をすたすたと歩き、アバイの正面で立ち止まると、建物の壁に描かれている絵をしばらく見ていた。私とタリイはそのアワセミソの後ろ姿を見つめていた。
私たちの視線を感じたのか、アワセミソはこちらを振り向いてにこっと笑い、手招きして言った。
「アバイの中に上がってもいいのかしら?」
私は反射的に首を横に振った。村のしきたりだけではない。そのとき、何か良くないことだと思ったのだ。
アワセミソは「そっか」と残念そうに言いながら、小さな出入口から身を乗り出して中をのぞき込んだ。「ほう、これね。確かに木だけで組んであるわ」と、内部を隅々まで眺めていた。
タリイといとこたちは、すぐにアワセミソになついた(チョコレートビスケットをもらったからだ)。
彼女はタリイに名前や年齢を聞いて、私にもビスケットを差し出して「あなたの名前は?」と言った。
「マリ」
「マリちゃん?日本名なのね。覚えやすいわ」
「私は、ユミコ。よろしくね」と言って、彼女は左手を差し出した。
あ、この人、私と同じ左利きなんだ。
こうしてアワセミソに、ユミコさんというちゃんとした名前がついた。
驚いたことに、ユミコさんが泊まっているのは町のホテルではなく、アメリカにいる私の兄さんの同級生、マシュウの家だった。しかも、マシュウの家は私の家から車で五分とかからない。
イミグレーション(出入国管理局)に勤めるマシュウは、四十代の割りに顔がきく。兄さんがパラオに帰ってくると必ず我が家に顔をだして、アメリカの失業率がどうの、パラオの将来がどうの、日本の援助がどうのと、難しい話しを二人で明け方までしている。
そのマシュウの母親とユミコさんの叔母さん(ユミコさんは「私の母の妹」と言っていた)が親戚にあたるというから二度びっくりだ。
その日の午後、私たちはお互いのことや家族のことを、アバイの広場へ続く石だたみの小道に座り込んで話し込んだ。ビンロウ樹のすき間から太陽がチラチラと射して、涼しい風が葉を揺らしている。タリイたちは飽きてしまったのか、いつの間にか帰ってしまったようだ。
「叔母は昔パラオに住んでいたの。それでちょっと調べたいことがあって。ほんとうは叔母も一緒に来るはずだったんだけど、持病が再発して入院してしまってね。で、私が親族代表で来たわけ。パラオの海はきれいだし。ちょうど仕事を辞めてぷらぷらしていたしね」
ユミコさんは流暢な英語で話しをした。アメリカに留学していたこと、「日本では英語の塾でアルバイトをしていたの」と。
そして、パラオの暮らしにがぜん興味があるようで、私の家のことを知りたがった。
「へえーっ、マリちゃんの家って島の暮らしそのまんまなのね。今度、遊びに行きたいわあ」
こんなふうにして私たちはすっかり仲良くなった。
太陽が低くなって石畳の上がひんやりしてきたので、「じゃあ、またね」と言って、私たちはまるで学校の友だちとバイバイするみたいに手を振って別れた。
やっぱりアバイは何かをつなげる場所なんだ。怖いけれど、たまにはいいことも起こるんだな、と、私はその日思った。
言葉どおり、ユミコさんは翌週、私の家にやってきた。
マシュウが運転するピックアップトラックに揺られて。手みやげに『アサヒ(ビール)』をワンケースと、アワセミソを持って。おばあちゃんはもちろん、父さんも母さんも、にこにこしながらユミコさんを歓迎した。
その夜は、母さん得意の巻きずしやいなりずし、魚をまるごと素揚げした姿揚げから、甘いタピオカのお菓子までが食卓に並んで、いつもよりずーっとゴージャスな夕食だった。もちろん私はうれしかったけれど、でもちょっとヘンな空気も感じていた。姉さんや兄さんが帰省するクリスマスじゃあるまいし、どうしてこんなに豪華に振る舞うんだろう、と。
リビングの隅に置かれたユミコさんの大きなスーツケースも気になった。
その答えが出たのは、マシュウが「じゃ、ショロショロ(そろそろ)……。明日も仕事だしな」と、重い腰をあげて帰っていったあとだ。なぜかユミコさんはマシュウと一緒には帰らずに、トミーとバンブーハウスで飲んでいた。
冷蔵庫から『バドワイザー』ではなく『アサヒ』をもう一本出してきた父さんが、ビール臭い息で私に顔を近づけて、
「マリ、ユミコさんは日本に帰るまでの間、この家に泊まることになった。お姉さんができてよかったな」と言った。
「えっ、ほんと?」
私は飛び上がって喜んだ。家族が一人増えたような嬉しい気持ちになった。
「じゃあ、ユミコさんと滝に行っていい? 無人島ピクニックは? ねえ、いい? 父さんのボートを出してくれる?」私はこのときとばかりにリクエストした。
でも、そのとき私はまだ何も知らなかったのだ。ユミコさんのまわりで起こった騒動の一件を……。
■四章 ユミコさんのホームステイ
●滝遊び
コッ、コッ、コケーッコッコー……。
耳をつんざくような鶏の鳴き声が、網が張られただけの窓から飛び込んでくる。心地よい眠りは毎朝、こうして瞬く間に引きはがされる。
机の上の時計に目をやると、まだ朝の五時半だ。まったくもう、うちの鶏たちときたら、もうちょっと朝寝坊でいいのに。私は心のなかでぶつぶつ文句を言いながら、タオルケットを頭まで引っぱり上げるが、東側の窓から元気に太陽が射してくるし、庭からは早起きなおばあちゃんの声も聞こえる。
うっるさいなあ、も~う!
タオルケットをはねのけて、虫よけネットが張られた窓から外を覗くと、地面には夜明け前までザンザンと降っていたのか、あちこちに水たまりができている。その水面に親鳥をまねてせわしそうに水を飲む、ちっちゃな黄色い姿が映っている。
私の眠けは一気に飛んだ。こんな朝はバンブーハウスへ直行だ!
すくっと伸びたビンロウ樹の間から、まぶしい光が一直線に地上に降りて、緑の葉をみずみずしく輝かせている。大きく息を吸い込むと、湿った土と熱帯植物が放つ青臭さで、肺のなかが緑色に染まりそうだ。どうして雨上がりはいつも、こんなに草や花の香りが強く匂うんだろう。
オレンジ色を薄く残していた空はあっという間に青一色になって、白い雲がぐんぐん流れていく。昨日とはうってかわっていい天気だ。
よし、これならガツパンの滝に行ける!
そうとわかればおちおちしていられない。やらなくちゃいけないことがたくさんあるのだ。
リビングへ行くと、床に敷かれたマットの上で四方八方に身体を投げだして弟といとこたちがまだ眠っている。みんなを踏まないようにそろりそろりと前進しながら、私は奥のキッチンへ向かった。
昨晩ユミコさんは、初めのうちは父さんとおばあちゃんとマシュウの四人で、なにやら深刻そうに話しをしていた。私もユミコさんに話したいことが山ほどあったのだけれど、とても横から口を挟めるような雰囲気ではなかった。
だいぶ遅くまで話していたのだろう。今朝はテーブルの上のハイジャラ(灰皿)には吸い殻が山盛りだし、キッチンにはゴミ箱に入りきれないビール缶が転がっている。
それでも朝になれば、家族はいつもと変わらない様子で集まって、めいめいに家の仕事や出かけるしたくをしはじめる。ユミコさんも起きていて、父さんとリビングでコーヒーを飲んでいた。
うちの家族はユミコさんをいっぺんで気に入ったみたいだった。
それにユミコさんったら、さっきキッチンで私の顔を見るなり、
「あ、マリちゃん、ゥンギルトゥタウ(おっはようごぜいまぁす)」なんて、とってもヘンな発音でパラオ語の挨拶をするんだもの。トミーはそれを聞いてゲラゲラ笑っていた。
私はユミコさんとガツパンの滝へ行って、その帰りにマングローブクラブをゲットする計画を密かに立てている。
マングローブクラブは島の名物のカニだけれど、外国からお客さんがきたような特別な日にしかテーブルにのらない。昨晩の歓迎ディナーでは、マングローブクラブは間に合わなかったのか、テーブルにでていなかった。だから今日は私がユミコさんに食べさせたいと考えている。
「母さん、これ食べたらユミコさんとガツパンに行ってくるね」
「いいけど、気をつけてよ。ここ数日ずいぶん雨が降ったから水かさがあるわよ」
「うん、ダイジョーブ」
私は鍋に残っていたタロイモの一番大きいのを取って、もぐもぐ頬張りながら、今日の算段を練った。
ガタガタ揺れるピックアップトラックで、トミーに滝へ下りる道の入口までで送ってもらい、私とユミコさんはそこから歩いて滝へと向かった。
今日はユミコさんは母さんのゴムジョーリを履いている。あのオシャレなサンダルでは歩きにくいし、ドロドロに汚れちゃうからだろう。
木の枝やからまったツタにつかまりながら、ぬかるむ土の小道をしばらく下りると、下のほうからザーザーと流れる水音が聞こえてきた。小道をさらに下りていくと水音がだんだん大きくなってくる。
「うわぁ、着いた。滝だあ!」
ユミコさんが立ち止まった先には、滝へ流れ落ちる寸前の水が光を拡散させながら小さな渦を巻いていた。母さんが言ったとおり、前に来たときよりもだいぶ水の量が増えている。
川へ入ると、水位は私の太ももまであった。
透き通った真水が肌にひんやりと気持ちいいが、流れはけっこう速い。足もとに気をつけながら対岸へ渡り、やぶをかき分けて滝の下まで降りて行った。
ゴーゴーと大量の水が勢いよく滝ツボへ落ちていく。滝の前に立っただけでもシャワーを浴びたたみたいにびしょぬれだ。
「きゃーっ、痛ーい、冷たーい!」
滝ツボに近づいたユミコさんが、大声を張り上げる。
私は深そうなたまりを見つけて、足からどぼんと飛び込んだ。滝から落ちた水が身体にあたると、野球のボールがつぎつぎと勢いよくぶつかってきたみたいに痛い。
私たちは、痛い、冷たいと大騒ぎしながら、一時間ほど滝ツボで遊んだ。私の目から見ても、おとなのユミコさんのほうがよっぽど子供みたいだった。
濡れたTシャツの端と端を持って、二人がかりでをギューッと絞りながら滝の入口でトミーの迎えを待っていると、
「おーい、マリ、どうしたんだ? 腹が減って歩けないのか?」
道のほうから聞きなれた声がした。
車の窓から顔をだしたのは、冗談が好きなアレンおじさんだった。
「トミーの迎えを待っているの」
「おう、そうか。置き忘れられないように用心しろよ。あいつはしょっちゅう忘れるからな。はっはっはっ」
と大声で笑って、こちらへぽーん、ぽーんと、オレンジの実を一つずつ投げてよこした。
トミーの車を待っている間、見慣れた村の車は必ず私たちの前に止まった。そして、アレンおじさんと同じ質問をして、私の返事を聞くと、安心したように走り去っていく。そのたびに私とユミコさんの手もとには、フルーツや缶ジュースが増えた。
「マリちゃんって、顔がきくのねえ」
ユミコさんは感心したように言って、左手でオレンジの皮をきれいにむくと、みずみずしい実をぱくっとほおばった。
村ではこんなことは当たり前なのだけれど、それはユミコさんには言わないでおいた。「顔がきく」って、なかなか悪くない。
「やあ、やあ、遅くなって、わりい、わりい」
ようやく現れたトミーは、口先ではわりい、わりい、と言いながらもまったく悪びれる様子はなく、「スタンドに寄ったらダチにつかまっちゃってさぁ」などと、いつもの調子でごまかすのだった。その言いわけが出たタイミングを見計らって、私はすかさずトミーに命令した。
「トミー、遅れてきたバツに、ヤスじいさんの家に寄って!」
「ええー、あのじいさんちかよぉ? 昼間は留守なんじゃないか?」
「この時間は家にいるはずよ。漁に出るのはもっと陽が落ちてからだもの」
「やれやれ、マリもばあさんに似てきたなあ」
頭をかきながらトミーは村の入り江に住むヤスじいさんの家へとしぶしぶハンドルを切った。
トミーはヤスじいさんの家が苦手なのだ。ヤスじいさんが飼っている犬に噛まれたことがあるから。あれはあきらかに、ドロボーと間違われたトミーが悪いんだけどね。
でもこれで私の計画は半分が成功だ。トミーはいつも時間に遅れるから、罰は前もって用意されていたのだ。
●海の森のごちそう
バベルダオブ島の沿岸は、うっそうとしたマングローブの森に囲まれている。
マングローブというのは、海水と真水が交じる水域に生えている植物のことだ。島の上流から流れてくる川の水と海の水が出合う沿岸に、びっしりと群生している。
満潮のときにはタコの足のような気根が水中にすっぽりと隠れてしまって、緑色の葉と幹の上のほうだけが水面に出ている。固くて強い気根を泥深くに張りめぐらせて、そこから養分を吸収するという木だ。
漁師の人たちは、マングローブの森にすむマングローブクラブを捕獲して、ホテルやレストランに売って現金に換えている。
沿岸に暮らす漁師のおじさんたちは、それぞれに秘密のポイントを持っていて、仕掛けカゴを気根の間にかけたり、潮が引いたときに、泥の水底にまるく開いた巣穴の奥に隠れているマングローブクラブを捕まえる。
カニは、巣穴に侵入してきた異物を攻撃する習性があるので、長い棒を巣穴に入れて、カニが棒をはさみで挟んだ瞬間に、うまく穴から引きずり出す。
ヤスじいさんはこの手法の名人なのだ。
ヤスじいさんの家の前にピックアップトラックを止めると、さっそく二匹の犬がしっぽを振って迎えにきた。トミーは『オレはここで待ってるから、お前たちだけで行け』というふうに、眉毛を上げて私にジャスチャーしている。きっと、まだトラウマなんだ。
「ヤスじいさーん、こんにちはー」
家の戸口で声をかけると、「おおー」と返事は水辺の小屋のほうから返ってきた。
「おう、マリか。ずいぶんひさしぶりじゃないか」
枝のように細くて、しわだらけのヤスじいさんが、ゴムひもで縛った真っ黒いマングローブクラブを手に小屋から出てきた。
「ちょうどいいところへ来たな。ほれ、これをばあさんに持っていけや。今日は八匹も捕れたからな。おや、おや、そのベッピンさんは誰じゃい?」
私の後ろに立っていたユミコさんを目ざとく見たヤスじいさんが聞く。
「私のお友だちのユミコさん。私の家にホームステイしているの」
「こんにちは」
ユミコさんがにっこり笑うと、ヤスじいさんは無言で小屋へ引き返した。
戻ってきた手にはもう一匹、マングローブクラブがぶらさがっている。さっきのよりも大きい。
「これはメスだから、うまいぞー」
ヤスじいさんがにんまりする。
だから、私はヤスじいさんが好きなのだ。物わかりがいい。
「シッ、来るなよ。おい、いいってば」二匹の犬にじゃれつかれながら、トミーが缶ビールをぶら下げて小屋へきて、黙ってヤスじいさんに渡した。トミーもたまには気が利くのだ。
みんなでマングローブクラブの礼を言って車に乗り込み、こっちを見ているヤスじいさんに大げさに手を振る。でも、ヤスじいさんの視線は、どうやらユミコさんだけに注がれているみたいだった。
ユミコさんが大きな声で「ありがとうございました」と日本語で言うと、ヤスじいさんはしわだらけの顔をますますしわくちゃにした。
家に帰って、さっそくヤシ殻を燃やして鍋に湯を沸かした。
わきに置かれた段ボール箱のなかでは、ひもで縛り付けられたマングローブクラブが、まるい目玉でこっちをにらんでいる。
このカニは生きていると泥のように真っ黒だけれど、熱湯で茹でるとみるみる真っ赤になる。殻とツメは金づちで叩き割らないと中身がだせないくらい固くて、大きなツメには白い身がびっしり詰まっている。
海で捕れるロブスターもおいしいが、私はこのカニの独特なコクのある身が好きだ。町の市場で買うと、大きいサイズなら一匹四十ドルもする。うちではアメリカから兄さんたちが帰ったときくらいしか食べられないから、今日はとてもラッキー。ヤスじいさんとユミコさんに感謝しなくっちゃ。
●シャコ貝と巨大ワニ
「おーい、タリイ、マリ、ちょっと手伝ってくれ」
海に出ていたらしい父さんが、知り合いのタマグおじさんのトラックに乗って帰ってきた。
「今日は大漁だぞ。沖に出て一時間もしないうちに、二十匹も釣れた」
トラックの荷台から重そうに下ろしたクーラーボックスを開けると、家族で食べるには十分な量の魚が入っていた。一緒に釣りに行ったタマグおじさんも、にこにこ顔だ。
「ブダイ二匹はココナッツスープで煮て、あとの二匹は焼くか。カスミアジは刺身にするとして……、おい、母さん、今朝ショーユを切らしたって言ってたけど、買ってきたかい?」
こういうときの父さんは家のなかにいるときより、ずっとテキパキしている。
そうだ、父さんの仕事の話しをまだしていなかったね。ユミコさんもいるから、ここで話そう。ちょっと長い話しになるけれど。
父さんは、島の水産試験場でシャコ貝の養殖の仕事をしている。
シャコ貝って知ってる?
カラのふちが波形の二枚貝で、身を食べたあとはきれいに洗って干すと、白いカラの小物入れや灰皿に使える。おみやげ物としても売られている。
小さなシャコ貝は掌くらい、大きなシャコ貝になると赤ちゃんがすっぽり入ってしまうくらい大きい。サンゴ礁の海に潜ると、そんな大シャコ貝が口を開けてサンゴの間に埋まっている。パラオには大昔からシャコ貝がたくさんいたみたいだ。
私たちはよく素潜りをして、開いているシャコ貝のカラを閉じて遊ぶ。でも、貝の怖さを知らずにやると危ない遊びだ。シャコ貝は一度カラを閉じると、すぐには開かないから。数か月前にも、シャコ貝に手をはさまれてケガをした島の人がいるもの。
小さなシャコ貝だからって油断すると指をはさまれる。小さいシャコ貝のほうが殻を閉じるスピードが早いから。
父さんは、そうしたシャコ貝を養殖で増やす研究機関の一員で、貝の成長記録や、死滅の原因調査を手伝ったりしている。
父さんが子供の頃は、それこそ海の中にたくさんいたシャコ貝も、乱獲で数が激減したんだって。
島の人はシャコ貝の刺身を好んで食べるし、カラをおみやげに売ったり、外国に輸出したりしたから。それに、フィリピンから密漁船がやってきたことも数が減った要因だろうって言っていた。
天然のシャコ貝は法律で採集が禁止されているけれど、密漁は後を絶たず、自然保護管理局のロバートさんが、「このままでは天然種は激減する一方だ」と、父さんに嘆いていた。
「じゃあ、私がレストランで食べたあのシャコ貝って、もしかして……」
話しを黙って聞いていたユミコさんが、言いにくそうに口を開いた。
「ううん、町のレストランで出されている刺身は、養殖ものなんだって」
シャコ貝のカラはワシントン条約で日本やアメリカに持ち込めないけれど、養殖なら証明書があれば持ち帰れる。
パラオに来て珍しいシャコ貝の刺身をたんのうして、カラをおみやげにできれば一石二鳥だしな、と父さんが満足そうに言っていたのだ。
「ああ、よかった」
話を聞いて、ユミコさんはほっとしたようだった。
父さんはその仕事にだいぶ熱心で、嵐が近づくと養殖貝が沈めてある入り江を監視に行ったり、ポンペイ島の海洋資源局に養殖の調査に行ったりしていた。
それが、先月までの話し。父さんがケガをする前のことだ。
スピア・フィッシング中にサメに追いかけられても、大シャコ貝に腕をはさまれても平気だった父さんが、先月思いもよらないケガをした。今度ばかりは相手が悪かったのかもしれない。父さんが挑んだのは、巨大な入り江ワニだったから。
その日、父さんは地元の漁師さんたちと一緒に、入り江ワニの捕獲にロックアイランズへ向かった。嘘じゃあない。この島には野生の入り江ワニがいるのだ。
日本統治時代に日本人が島でワニを養殖していたのが、戦争になって檻から逃げだして野生化したのだという話しもあるし、ニューギニアから海を渡ってきたという話しもある。ほんとうのことはよくわからないみたい。
私が小学三年の頃、兄さんの友だちがガツパン湾でしとめた入り江ワニは、口から尾の先までが五メートルもあって、村の人もみんな驚いていた。
実物を見に行った父さんが、帰ってくるなり大興奮で、そのワニがどれだけ巨大だったか、どれくらい重いのか話していたことを私は今でもよく覚えている。
「ワニの口と胴体と尾を板に縛り付けて、ボートで運んできたんだが、人力ではとうてい引き上げられないから、クレーンをつかって港にあげたんだ」
あとになって、兄さんからそのときの写真を見せてもらったけれど、それはほんとうに、ほんとうに巨大だった。
大きなワニの前で得意満面に並んだタフックさん(兄さんの同級生の一人だ)の背丈のゆうに三倍はあったもの。父さんもあれほど巨大なワニを見たのは、そのときが初めてだったらしい。
その入り江ワニが、また出現したらしいのだ。
ふだんは汽水域の湾などに生息して、夜しか行動しない夜行性のワニが、ウミガメを追いかけて観光客がよく上陸するロックアイランズに現れた、という情報だった。
観光客にケガがあっては島の、いや、パラオの一大事!と、父たちは夜な夜な無人島に張り込んで、ようやく現れた入り江ワニを命がけで追いつめ、数人ががりでロープでワニの口と体を縛り上げた。と、そのとき、激しく暴れたワニの太くて頑強な尾に叩かれて、父さんの腕にひびがはいってしまったのだ。
大事にはいたらなかったからよかったものの、おばあちゃんが「昔は漁師がワニに腕や足をかみ切られたもんだよ」と言って、私たちをぞっとさせた。
そんなわけで、父さんは今は休職中の身だ。
初めは家でおとなしくしていたのだけれど、ここ数日はトミーや親戚のおじさんとボートで外海へ釣りにでかけている。
家にいるとビールばかり飲んでいるし、掃除をするにもジャマだから、母さんは父さんに外出してもらったほうがいいみたいだけれど、そのへんで遊んでいるくらいなら私は漁にでてくれるほうがいいと思っている。
だって父さんの釣りの腕は確かだから、我が家の夕食がめっきり豪華になるのだ。刺身が好物のタリイだってご機嫌だ。
ただ、母さんだけが、「そんなに腕が動くんなら、明日から仕事に戻れるんじゃない?」と、ちくりと刺す。そんなときの父さんは、引き揚げられたロブスターのように、部屋の隅でちぢこまってしまうんだけどね。
だから今日のように、活き活きしたいつもの調子の父さんを見ると、私までうきうきしてくる。
■五章 日本時代のこと
●パラオ語
今夜は夕食のテーブルが鮮やかだ。
まっ黄色に茹でたタピオカと、父さんが釣ってきた色がカラフルな魚が頭つきで盛り付けられている。そして中央には私がゲットした真っ赤なマングローブクラブ。えっへん!
ぷりぷりの刺身とブダイのココナッツスープ煮もある。
「いただきまーす」 ユミコさんが日本語で言って、マングローブクラブを真っ先につかんだ。私もマネする。
「イダダギマーシュ」
「あははは……」
ユミコさんが楽しそうに笑う。私の日本語、おかしいのかなあ?
学生時代からダイビングが趣味というユミコさんは、以前からこのへんの島じまを潜り歩いてきたそうだ。隣のヤップ島や、グアム島の東にあるチュークやポンペイ、コスラエ、マジュロなど私が行ったことがない島までも。
「ミクロネシアはすごく広いから、島によって言葉や風習や、食べる物も少しずつちがうでしょ。パラオではタピオカをよく食べるけれど、ほかの島はタロイモとかヤムイモ、パンノミのほうが多いんじゃないかな」
ユミコさんの話しによると、島によって主食にしているイモの種類とか、食べ方にちがいがあって、知れば知るほど興味がわくそうだ。
「パラオもミクロネシアと呼ばれる海域のくくりに入るが、ヤップやチューク、ポンペイ、コスラエはミクロネシア連邦。つまり、私たちのパラオ共和国とは別の国だ。ややこしい政治的な理由から、パラオは他の島じまと一緒に連邦にはならず、自分たちだけで独立の道を選んだからな」
と、父さんがしたり顔で話しに割って入った。
「けれど、昔はカヌーに帆を揚げて、島から島へと自由に行き交わしていたんだ。今はヤップステート(州)だ、チュークステート(州)だと分けられているが、昔の島の人からすれば、カヌーでひょいと隣の島へ行くのはあたりまえだった。
パスポート?そんなもん、ない、ない。
昔、じいさんが話していたが、何十キロも離れた島までカヌーを操って、ちょっとタバコをもらいに、ヤシ酒を飲みに、なんてことは、わけないことだったらしい。海はつながっているし、ミクロネシア人のルーツは一緒だしな」
今日は釣果がよかったせいか、父さんはじょうぜつになっていた。
「そうですよね。今は国がちがうと言っても、ヤップとパラオにはよく似た文化があるものね。ほら、マリちゃんと初めて会ったアバイだって、ヤップではペバイって呼ぶ同じような集会所があるし。ビンロウを噛むシューカン(習慣)も一緒でしょ」
このへんの島の文化をいろいろ知りたいというユミコさんの姿勢に、父さんの機嫌はますますよくなった。
私の家は、おばあちゃんや亡くなったおじいちゃんのいとこの息子のそのまた……と、たどってゆくと、ずいぶんあちこちの島に親戚がいるみたいだ。
そのお陰で、ヤップ島やグアムやサイパン島に遊びに行っても、泊まるところに不自由しなくて、助かっちゃうんだけどね。
「私にはミクロネシアが肌に合うというか、なんかほっとするのよね。日本語が話せるおじいちゃんやおばあちゃんがいることも、日本人の私にとっては楽しいことだし」
と、ユミコさんは、ココナッツスープをすすりながら言った。
「それにやっぱり、パラオは面白いわ!」
私には、自分の島がどういうふうに面白いのかはわからない。返事のしようがなくて、
そう?という顔をしていると、ユミコさんは急に真顔になって「ねえ、マリちゃん、私の話しってナマイキ?」。
ぷっ。私は吹きだした。トミーも父さんも、母さんも同時に笑った。おばあちゃんは、ギョホッっとヘンな笑い声をあげた。
「ほらね、こういうところが面白いのよー」
ほら、私の話にひっかかった、と言わんばかりに、ユミコさんは愉快そうに笑った。
ナマイキという日本語は、そのままパラオ語になっている。
シューカンも、バショも、ベントーも、ベンジョも、ゾーリも、デンキも、ヤキュウも、ウンドーカイも、ハイザラも、センコウも、ナッパも。もっともっとたくさんある。
私たちの島には、今から六十年以上も前に日本人がたくさん住んでいたことは、おばあちゃんから聞いて知っている。おばあちゃんが日本語を話せるのは、コロールにあった日本式の学校で日本語を習わされたからだ、と。
長い間、日本人が持ち込んだ習慣のなかで島の人たちは暮らした。戦争が終わっても、その習慣はそのまま私たちの島に残った。
私が大好きな日本の食べ物もその一つだ。たくさんの消えない日本の置きみやげ。
「私ね、学生時代に初めてパラオに遊びに来たときに、泊まっていたパラオホテルのスタッフにいろいろ質問したの。タクシーはちゃんと来る? ぼられない?って。そしたら彼は笑って『ダイジョーブ、ダイジョーブ、ジャガモンダイ(問題ない)』って」。
それで、ユミコさんは日本語がそのままパラオ語になって残っていることを知ったのだという。
ユミコさんは、日本人が耳にすると面白いというパラオ語を次々にあげた。
「三階建てでもニカイ(二階)って言うでしょ。あと、お年寄りはパンツをサルマタ、ブラジャーをチチバンドって」
おばあちゃんがくしゃっと笑った。
「二つに折ることをタタム、それ以上折るとタタンデイルって、なぜか変化したり」
「ええーっ、タタムは日本語なの?」
私はびっくりして聞いた。「タタム」はほんとうのパラオ語だと思っていたから。
「そうよ。服を『畳む』っていう日本語。私も子供の頃に、大好きな『カステラ』って日本語だと思っていたの。そうしたらポルトガル語だって聞いてびっくり。今のマリちゃんと同じ驚きね」
それからユミコさんは何か思いだしたように、急にクスクス笑いはじめた。
「ボートでパラオの沖に出たときのことなんだけど……。
頭がまるいゴンドウクジラの群れに遭遇したの。だいぶ沖のほうでボートからかなり離れていたから、私にはまるで見えなかった。でもパラオの人ってすごく視力がいいでしょ。ボートキャプテンが、私にクジラがいるところを教えようとして、クジラの頭が海面に浮かぶたびに、『アタマ!』って指さして叫ぶの。何頭も浮かぶと『アタマ、アタマ、アタマ!』って。あれは愉快だったわ」
ユミコさんはよほど可笑しかったのだろう。今思い出しても笑いが止まらないようだった。
「そういえば、オレたちふざけて『この、タンマネギアタマ!』って言うなあ」と、トミーがとぼけた声で言うと、ユミコさんは目尻に涙を浮かべて大笑いした。
そんな姿を見ながら、私は以前から謎だったある日本語を思い出した。
「ねえ、センコウって、どういう意味?」
「センコウ!?」
ユミコさんは涙を手でぬぐいながら、笑うのをやめて私の顔を見た。
「友だちの親戚のおじいさんがセンコウって呼ばれてたって聞いた」
パラオには、イシドウロウという日本名を持つ年寄りもいたという。
とたんにユミコさんの表情は曇った。そして、おばあちゃんのほうをちらっと見てから、少し考えたようにゆっくり話しだした。
「センコウは、日本ではお墓に供えるものなの。祖先の霊を供養するインセンス(線香)。その名前は、太平洋戦争がはじまる前の日本統治のときか、戦時中に付けられたのだと思うけれど……」と、ユミコさんはそのあとなんと言葉を続ければよいのか困っているようだった。
聞いてはいけないことだったんだろうか?
質問をした私はバツが悪くなり、下を向いた。
窓枠に張られたネット越しに、バナナの葉がさわさわと揺れている。
「日本人がこの島にいたときは、それはそれは、たっくさん、いろんなことあったよ。いい日本人もいれば、悪い日本人もいた。でも、それは、今も同じ」
それまで黙って私たちの話を聞いていたおばあちゃんが、突然口を開いた。おばあちゃんは日本語で話したから、ユミコさんにしかわからなかったけれど、私はそのとき、家族全員がおばあちゃんの言った意味を、一瞬にして理解したと感じた。
おばあちゃんの言葉は耳にではなく、心に聞こえてきたから。
ユミコさんはおばあちゃんを見て、薄くほほえみながらコクリとした。
●騒動
最初は遠慮がちにしていたユミコさんも、二、三日もすると、この家の生活にすっかり馴染んだようだった。
私が学校に行っているあいだは、おばあちゃんと一緒にタピオカ畑やタロイモ田に行って芋掘りを手伝ったり、母さんにパラオの料理を習っているようだった。
「マリちゃん、パンノミチップスあるわよー」
私が帰ってくると、キッチンからユミコさんの元気な声が飛んでくる。
「はーい、今、行く!」
パンノミチップスは私の好きなローカルのおやつだ。
緑色のパンノキの実は、私の頭くらいの大きさがある。皮をむくとクリーム色の身で、ポテトチップスみたいに薄く切ってから油で揚げる。私は砂糖をまぶしておやつに食べるけれど、父さんは塩を振って、ビールのつまみにしている。揚げたてはパリパリしていてすごくおいしい。
パンノキなんてヘンな名前だけれど、昔、はじめてパンノキの実を食べたヨーロッパ人が、「パンの味がする」といって、名付けたらしい。ほんとうは、パンというより芋の味だけどね。
「今日はタピオカイモをいっぱい収穫してきたから、明日はお母さんにタピオカのお菓子の作り方を習うんだ。マリちゃん、ドゥル・ディオカン好き?」
「大好き!」
ドゥル・ディオカンは、すりおろしたタピオカを蒸した後に、ココナッツミルクのキャラメルをつけて焼いた甘いお菓子だ。特別な日に作るお菓子だから、そうそう口にできない。でもユミコさんがいると、母さんがパラオのいろいろな料理をユミコさんに教えているから、スペシャルなものがたくさん食べられて、私はとってもラッキーだ。
山の斜面にある我が家には、それまで以上に笑い声が響いて、ユミコさんも毎日とても楽しそうだった。
その日の夕方、事件は起きた。
私の頭のなかが明日のドゥル・ディオカンでいっぱいになっている頃、モーターボートの部品を注文しに町へ行っていたトミーが、こわばった顔で帰ってきた。いつもののほほんとした雰囲気は消えていて、怖いくらいの表情だった。
トミーは私の顔を見るなり腕をひっぱって、庭の小屋へ連れだした。そして早口で言った。
「さっき、町で部品の在庫を調べてもらっていたら、同級生がオレを見つけるなり言ったんだ。『おい、おまえんちに日本人かくまってるだろう』って。オレは何のことかさっぱりわからなかったから、『何の話だよ』って言い返したけど、日本人って彼女のことかなあとは思ったさ」
私はあまりの突然のできごとに、ぽかんとしていた。トミーの言っていることが、まったく理解できていなかった。
トミーはまるでその話を一刻も早く誰かに話さないと、自分の身に危険が迫ってくるような感じで話し続けた。
どちらかと言えば温厚でルーズなトミーがまくし立てるようにしゃべる顔を見ながら、私は、小さい頃から一緒に育ち、よーく知っているつもりのトミーでさえも、私の知らない一面があるんだな、と思った。こんなに深刻な表情を見たのは初めてだった。
トミーの話は、こうだ。
彼のハイスクール時代の同級生シムは、コロールと橋でつながれた島の大地主だった。
ピカピカの真っ赤なスポーツカーを乗りまわし、丘の上に建てられた豪邸に住んでいる。そのシムが、親戚中をまわりまわって耳にした、ユミコさんの「パラオでの調べ物」に激怒したのだという。
ユミコさんが持っていたのは、日本統治時代に作成されたパラオの土地の登記簿だった。
シムはトミーに、「オレの家族の土地を金持ちの日本人が乗っ取りに来たんだぞ!」と、すごい剣幕で言ったそうだ。
「それってさあ、ほんとうの話しなの?」私はおそるおそる聞いた。
「さあー、オレにだってわかんないさ」
当然の答えだった。
私たちはしばらく黙って、別々に何かを考えていた。
「ねえ、父さんに聞いてみようか?」
「うーん、おやじさん、何ていうかなあ……、オレたちに本当のこと、話すかなあ……」
トミーはいつもの引っ込みじあんなトミーに戻って、ちゅうちょしていた。
「でもさ、父さんじゃなきゃ誰に聞くの?母さん?おばあちゃん?」
私ははっぱをかけた。私だって気になる。そんな話を聞かされた後に、いつものようにユミコさんと一緒に笑えるはずがない。
「ああ、そうだな。疑いを持ったまま一緒に暮らしているのは気づまりだからな」とトミーが決心したように言った。
彼がいつもより、おとなっぽく見えた。
その晩、私とトミーは、夕食の前にこっそりと父さんを呼び出した。
話し声が家のなかまで届かない離れの小屋の便利さを、私は知っている。だから、おとなたちはいつもここで話しをしているのだ。
ユミコさんはリビングで、小さい子供たちの子守りをしながら、アメリカのテレビ番組を見ていた。
父さんはトミーの話しを一通り聞くと、パンダナスの葉で編んだバスケットから、ビンロウの実を一つ取りだして小型ナイフで半分に割り、それに石灰を振りかけてキンマの葉にくるんで、ポイっと口にほうり込んだ。
カリッ、カリッと実を噛む音が、裸電球がぶら下がった小屋の下に響く。気持ちのよい風が遠くの海のほうから吹いてくる。
ビンロウの実は、何かをじっくり考えるときや、話し合いに「間」が必要なとき、あるいは、ただ単に暇なときに噛む嗜好品だ。噛み続けると、だ液が真っ赤になる不思議な実で、初めてパラオに来てこれを見た人たちは、みんな口から血を流しているのかと思って驚いている。
「ねえ、父さん、その話、本当なの?」
私は父さんの「間」が待てずに、せかした。
「うむ、本当と言えば本当だし……本当の部分もあるし、本当でない部分もある」
それだけ言うと、父さんはまたビンロウを噛みだす。私はあきらめて次の言葉を待つことにした。
しばらく、ゆっくり、ゆっくりビンロウを噛んでいた父さんは、竹で作ったベンチの隅にあった空き缶に、ぺっと赤いだ液を吐き出した。そして話し始めた。
「ばあさんと、死んだじいさんがまだ若かった頃、この島に移民してきた日本人は一万人もいたそうだ。日本の本土ばかりか、沖縄というパラオのような南の島から来た人がだいぶいたらしい。沖縄の人たちはカツオ漁をする人が多かったみたいだ。日本で農民だった人はここでも畑を耕し、日本で政府の役人だった人は、ここでも役人だった。
その役人や商社の人間が中心となって、コロールに日本と同じような町を造った。日本語を教える公学校があり、活動(映画館)や新聞社、宿屋や料亭、床屋なんかもあって、今よりもっと栄えていたそうだ」
そこまで一気に話すと、父さんは私に冷蔵庫から缶ビールを二本持ってくるように言った。
父さんとトミーがごくごくと喉を鳴らしてバドワイザーを流し込み、同時にひと息つくと、父さんは話しの続きをはじめた。
「その頃のパラオは日本の領土として考えられていたから、日本人に必要な土地が接収された。日本式に土地の登記がされたんだ」
私は父さんの言っている意味がよくわからず、「登記って何?」と聞いた。
「私たちは先祖代々の土地に縄を張って、ここからここまでがオレの土地だ、とは言わないだろう。うちの山はばあさんのものだと村のみんなが知っている。知っていればそれでいい。わざわざ縄を張って示す必要もない。あの山はエラリウノス家の山、それで済む。
けれど、日本人はきっちりと線を引いて、ここまでがオレの土地だ、オレの畑だ、とわからないと暮らしにくい人種なんだろう。それでこの島にもそのやり方を取り入れた」
「じゃあ、ここの土地も日本人の誰かが登記簿を持っているの?」と、トミーが横から口をはさんだ。
「いや、それはないはずだ。日本人はバベルダオブにも入植して畑を作ったが、ばあさんからも、じいさんからも、ここの土地がとられたという話しは聞いたことがないからな」
それを聞いて、トミーはほっとしたようだった。
父さんの話しによると……
ユミコさんが日本から持ってきた登記簿は、昔、パラオに住んでいたユミコさんの親戚のおばさんのものだった。多くの登記簿は戦火で焼けてしまったが、そのおばさんは戦争がはじまる前に日本へ引き揚げたため、手元に残ったらしい。
「でも、そんな昔の書類が有効なの?」トミーが聞いた。
「いや、日本がアメリカに負けた時点で、それは紙切れどうぜんだ。裁判を起こしてもムダだし、第一、今のパラオの法律では、外国人に土地を売ってはいけないんだからな」
外国人がパラオにホテルや家を建てる場合、地主と七七年間の賃貸契約を結ばなくてはならない、と父さんは言った。
私は頭のなかで計算した。もし、二七歳のユミコさんが土地を借りてパラオに家を建てたなら、百四歳までパラオに住んでいられるということだ。それは私にはけっこう楽しいことのように思えた。
そんなことは何も知らずに親戚のおばさんから登記簿を預かってきたユミコさんは、パラオに着いた夜に、それをマシュウに見せたが、一笑されてしまった。しかし、権利証や登記簿という役所の書類がとにかく重要な日本人のユミコさんにとって、マシュウの「何の価値もない」という言葉がどうしても信じられなかった。あるいは、信じたくなかったのかも知れない。
そして、以前知り合ったホテルを経営するパラオ人のことを思い出し、その人に登記簿を見せに行ったらしい。そのパラオ人というのが地主の弟だった。
「まあ、そこがちょっとモンダイだったわけだ」
「でもなぜ、そんな無効の登記簿にシムが怒ったんだ?」トミーが頭をひねる。
「ヤツは登記簿を持ってきた彼女に腹を立てたわけではないだろう。昔の登記簿がでてきたことで、自分たちの土地を取りあげた昔の日本人のことを思い出して、カッとなったんだろう。あいつは昔からそういうヤツだ」
父さんの話しは私にもわかりやすかった。その地主の行動が「いかにも」だからだ。カッとなると見境がなくなるのが、島の男たちの悪いクセだと母さんはよくこぼしている。
いつだったか、町のレストランで、酔っぱらって男どうしの喧嘩をはじめ、相手の首をフォークで刺して大ケガをさせたこともあった。
頭に血がのぼった地主は、マシュウの家にやって来て、玄関先で怒鳴り散らしたそうだ。
その一件が、「金持ちの日本人が土地を奪いに来た」「コロールに近い土地を大枚はたいて借りたい日本人がいるそうだ」と、うわさがうわさを呼んで、うわさがひとり歩きし、風船のように大きくふくらんでしまった。
ユミコさんのおばさんにすれば、もし、その登記簿がまだ有効なら、その土地に家でも建てて、老後は日本とパラオを行ったり来たりして、のんびり暮らしたいと軽い気持ちで考えていたみたいだ。
「だから、マシュウが急にユミコさんをここに連れて来たの?」
「ああ、それもある。『あの土地は、じつはわしのばあさんのものだ』『オレのひいじいさんのものだ』『オレの親族の土地でもあるから安く貸すぞ』などと、毎晩のように客が来たんじゃあ、マシュウの家族も、おちおち寝てもいられないからな」
「はあーっ、なあんだ、そういうことか」
トミーが深いため息をついた。私も頭のなかにあったモヤモヤが消えて、すっきりした気分だった。冷たい滝に打たれた後みたいだ。
「ま、この件は彼女には黙っていなさい。それでなくてもマシュウの家で大変な思いをしたろうから。そっとしておいたほうがいい」
私とトミーは父さんの言葉に黙って頷いた。
■六章 ピクニック
●パラダイスアイランド
「マリ、タピオカが蒸しあがったか、ちょっと見て」
「はーい」
母さんに言われ、私はヤシの葉の芯で、鍋のなかのタピオカをぶすっと刺してみた。黄色く蒸しあがったタピオカにスーッと芯が入っていく。
「OK!」
玄関では、トミーが大きなアイスボックスをかついでピックアップトラックに積み込んでいる。ユミコさんは一個ずつていねいにアルミホイルで包んだむすびをバスケットに入れている。
用意ができたらみんなでトラックの荷台に乗って町まで行き、スーパーマーケットで飲み物と氷を買って、それから港に留めてあるモーターボートに乗り替える。そしていざ、ロックアイランズの無人島へ出発だ!
わくわくした。
この前の晩、トミーと相談して週末にユミコさんを無人島ピクニックに誘おうと決めた。それをユミコさんに言うと、彼女は飛び上がって「うれしいーっ!」と、トミーにハグしたのだ。だから今日トミーはカッコいいところを見せようと朝から頑張っている。
メンバーは、私と弟のタリイとトミーとユミコさんの四人。父さんも行きたそうだったけれど、村の集会があるとかで残念そうに首を振った。村で何かを決める場合、首長や長老や村長たちが集まって会議をする。父さんは村長をしているので、出席しないわけにはいかないのだ。
そういえば、トミーはボートの部品を町に取りに行っただろうか。
「エンジンカバーがガタガタするから、ピクニックに行く前にしっかり止めておかなくちゃな」と言っていたけれど。トミーは気がやさしくてとてもいいヤツなのだけれど、ビールを飲むとすぐに忘れてしまうのが唯一(そして大きな)欠点なのだ。
ブルン、ブルン、ブルン……港にヤマハのツーサイクルエンジンの音が響く。ときどき黒煙を吐いて機嫌が悪くなるが、島の男たちは「ヤマハのエンジンはナンバーワンだ!」と親指を立てる。
モーターボートは凪いだ海面を勢いよく滑り出した。
「うわぁ、緑の島がそのまま映ってる。鏡みたい!」
私たちは岩山と呼ぶマッシュルーム形の小さな島が、海面に逆さ絵みたいにきれいに映っている。
ひさしぶりにロックアイランズへ行くというユミコさんは、ご機嫌だった。
さっきは得意な(と本人は思っているみたいだ)パラオ語の挨拶を港にいた人たちに笑顔で振りまいて、みんなに笑われていた。堤防の先で釣り糸を垂らしていた人たちまで振り返ってゲラゲラ笑ったから、私はかなり恥ずかしかったのだけれど、ユミコさんは得意満面だった。
港から一時間も走ると、目的の島パラダイスアイランドが見えてきた。青い海の色がだんだん水色になって、その先に真っ白な砂浜が横に伸びている。木々の木陰が見るからに気持ちよさそうだ。
パラダイスアイランドは無人島だけれど、ビーチに簡単な小屋が建ててあるから、急にスコールが降ってきても雨宿りできるのがいい。無人島の持ち主は父さんと長い付き合いだから、ひとこと断ればいつだって上陸できる。
パラオにたくさんある無人島のほとんどは州政府が管理しているのだけれど、この島のように個人で所有する島もいくつかあるのだ。
ボートを砂浜に押し上げて、水とベントーとクーラーボックスを小屋に運んだ。私もタリイもひさしぶりの無人島でおおはしゃぎだった。
波が引いたばかりのトロトロに柔らかい砂に、膝が隠れるまで足を埋めて遊んだり、誰がいちばん多く見つけられるか貝拾い競争をしたり。
子供より子供みたいなユミコさんと、私とタリイは、海と砂浜を何往復もした。動くのが嫌いなトミーは、さっさと木陰で昼寝を決め込んでいる。
「マリちゃん、ほら見て。こーんなに小さな貝にも、ちゃんときれいな模様ができてる。美しいわー。貝ってアートよね」
五ミリほどの小さな巻貝を人差し指にのせて、ユミコさんはしきりに感心している。
白砂ビーチは太陽の照り返しが強烈で、数分もいると汗が吹き出してくる。今日のように海から吹いてくる風がなければ、島育ちの私だって昼間のビーチにはいられない。なんせパラオは赤道に近い島国なのだから。グアム島あたりよりずっと太陽が強いのだ。
「ああ、いい気持ちー。極楽だわー」
すでに肩を真っ赤に日焼けしたユミコさんは、浅い海に大の字になって仰向けに浮かんでいる。私も一緒に仰向けになった。タリイは「ぼくのコークある?」と言って小屋に置いてあるクーラーボックス目がけて走って行った。
上空はだいぶ風が強い。真っ青な空に綿菓子のような雲がふかふか浮いて、それが面白いように流れていく。翼を広げたシロアジサシが風に乗って、ヒューンと滑空していく。
「海と空が青いって、ほんと素敵よね……」
ユミコさんはそんな当たり前なことを目を細めながら言った。そして急にがばっと起きあがると、何色ものブルーを重ね合わせた遠くの海をじっと見て、次に私の目を覗き込むように「マリちゃんは、深い海のなかを見たことある?」と聞いた。
「ううん」
私が潜れるのは、足ヒレをつけてもせいぜい三メートルくらいだ。素潜りをして遊ぶのは内海と決まっている。父さんのボートで外海へでても、底が見えないような深い海には怖くて潜る気になれない。
「そっか。まだスキューバダイビングをするには早いのかな。
ものすごーくダイナミックよ、パラオの外海って。ズドーンと垂直に落ちているサンゴ礁の壁に沿って泳ぐの。三六十度真っ青な世界で、底が見えなくて、何が出てくるかわからなくてドキドキするけれど、そのスリリングさがたまらないのよ」
ユミコさんはダイビングをしたときの海の中を思い出すのか、高揚しながら話した。
私は自分が知らないパラオの深い海の中を想像した。
父さんが釣ってくる、アジやブダイやコショウダイなんかがびゅんびゅん泳いでいるのだろうか。大きな目玉のナポレオンやウミガメも見れるのだろうか。それに、サメもいるのだろうか。
「海の中で、サメ、見たことある?」私はおそるおそる聞いた。
「サメなんていつも見るわよ」
「えーっ? い・つ・も?」
「そうよー。メジロザメが悠々と目の前を泳いでいくの。海の中で見るサメってステキよ。流線形で、とってもきれい」
ア然とした。サメが目の前を泳ぐ? サメがきれい? 私はあんぐり口を開けてユミコさんの顔を見た。
私にとってサメは恐ろしい魚以外の何モノでもない。
小さい頃、父さんのボートで沖へ釣りに出たときに、一メートルくらいのサメが針にかかったことがある。父さんが釣り糸を何度も引いたりゆるめたりしながらたぐり寄せて、ボートの脇に引き寄せたサメの顔を見たときは、心臓が飛び出しそうだった。
白い目は悪魔のように冷たく、尖った歯は人間の骨をも食いちぎりそうな鋭さで、私は狭いボートの上を後ずさりした。
「あははは……。普通サメは人間を襲わないわよ。こっちから近づいていくと、イヤそうに逃げちゃうもの」
ユミコさんの話しでは、世界にサメは四百種くらいいて、そのうち人を襲うどう猛な種類は、ホオジロザメとかほんのわずかで、パラオの海で出あうことは滅多にないという。
ハンマーヘッドシャークという頭が金づちのような形をした凶暴なサメが、ときおりペリリュー島の沖に群れていることもあるそうだけど、泳いで移動してしている群れを海の中で見ている分には怖くないと言った。
私はユミコさんの話しを信じられない気持ちで聞いていた。
「でもね、潜っていて怖いのは、サメなんかじゃないの」と、ユミコさんが声を低くして言った。
そして、何か重大なことを打ち明けるような顔つきで、私の目を見た。
●ユミコさんのピンチ
私が聞いたユミコさんの体験談は私が知らないパラオの、深い海の中の話しだった。
~ユミコさんの話し~
ベタ凪の外海を五十分ほど走ると、モーターボートはスピードを落とした。
ボートの縁から顔を出して海を覗くと、海面に私の顔がはっきり映っている。紺碧の海に幾千もの光線が放射状に広がり、深くて底が見えない海中を射している。
ああ、早くあの青い水に包まれたい!
パラオでスキューバダイビングの資格を取ってから、何十回もこのポイントに潜った。リーフの地形はだいたい頭のなかに入っていたし、潜る要領も得ていた。いつもなら海辺にあるダイビングショップのボートに相乗りをして大勢で潜るのだが、今日はパラオの友人のベニータが休みだったので、彼に頼んで小型ボートを出してもらった。
ボートとスキューバタンクさえ用意できれば、ダイビング器材は日本から持ってきていたし、一緒に潜るバディ(パートナー)にはポリーを誘った。ダイビングは二人組で潜るのが決まりだからだ。
ポリーはベニータのいとこで、観光客が多い時期だけダイビングショップでアルバイトをしている。今の時期は日本からのチャーター便もなく、暇そうにしていた彼女は一つ返事でついてきた。
私たちはボートの上でダイビング器材を装着して、ボートの縁に腰かけてから、背中から海に飛び込んだ。
ザッパーン。
たちまち全身が白い泡に包まれる。そのすき間から、青く、透明で、明るい海中が水中マスクの視界いっぱいに広がる。う~ん、最高のコンディションかも!
私とポニーは親指を下へ下げて、海底へ降りていく合図をし、ぐんぐん深いほうへ頭から潜降していった。
スーッ、ゴボゴボゴボッ。スーッ、ゴボゴボゴボッ。タンクのなかの空気を吸っては吐く、自分の呼吸音が大きく耳に届く。
サンゴ礁の岩壁に沿いながら潮の流れに乗っていくと、数え切れないほどの黄色と白のカスミチョウチョウウオが、花びらが舞うように泳いでいる。そのなかをメジロザメが悠々と泳ぎ去る。パラオの海中のいつもの光景、いつもの世界だ。
雄大な海の景色に見とれていると、今度は大きな目玉をくりくりさせながらナポレオンフィッシュが登場した。愛嬌のあるナポレオンフィッシュの顔は、犬のようにかわいい。
見上げれば、サンゴ礁の上でアジの大群がギラギラと光っている。私とポリーは合図を送って、アジの群れのほうへ泳いでいった。
群れの中を突っ切ると、群れは私たち二人をすっぽり取り囲むように、ぐるぐる回りだした。まるでメリーゴーラウンドの真ん中に立っているみたいに、目がまわりそうだ。
そこへ大きなロウニンアジが勢いよく突っ込んでくる。
するとパチンコ玉でも打たれたみたいに、銀色の大きな群れはパッと割けて、そこだけぽっかりと青い空間ができる。小さい魚を大きな魚が狙い打ちする海の中の食物連鎖。追うほうも真剣なら逃げるほうはもっと必死だ。
潮の流れに乗ってさらに進んでいくと、海面近くにぼんやりと黒いかたまりが見えた。目を凝らすと、バラクーダ(オ二カマス)の群れのようだ。
私はポリーに海面近くを指さして、あの群れのところへ行こう!とジェスチャーで意思を伝えた。
近づくと、すごい数のバラクーダだった。数百ではない、千を超す大群だ。銀色に黒い縦縞の胴体、無表情な顔つき、尖った歯。それらが何千匹も固まって一方向へ泳いでいる。
その光景はまるで、大空を渡ってゆく何千羽もの渡り鳥の群れのようだった。青い天空を魚が飛んでいるようだ。
私はぼーっと見とれた。いつになく気持ちが高ぶっていた。どこまでも追いかけていきたいそんな衝動にかられて、取りつかれたように群れと一緒に泳いだ。
カンカン、カンカン……。
海のなかから聞こえてくる高い金属音に、はっと我に返った。
ポリーがどこかで、ダイビングナイフでタンクを叩いて、私に合図を送っている。けれど彼女の姿は見えない。音がどっちからしているのかもわからない。魚に夢中になりすぎて、だいぶ離れてしまったようだ。私はあせった。
音が聞こえてくると思った方向へ、潮の流れに逆らって泳ぎだしだ。
潮が速くなってきたのか、少し息が苦しい。私は水の抵抗を少しでもやわらげるため、頭を水平にして懸命に泳いだ。太ももに力を込めて、足ヒレを上下に力いっぱい動かす。
……何かおかしい。こんなに力いっぱい泳いでいるのに、ちっとも進んでいる気がしない。それに……自分の吐いた息が細かい気泡になって、いつまでもまわりに漂っている。
耳の鼓膜が圧迫されたようにキーンとなった。
あっ。
私は慌てて、腰のあたりにぶら下がっている水深計を手元に引き寄せた。
一七、一八、一九メートル……水深計の針がどんどん深みへ落ちていることを告げる。頭の中が真っ白になった。私はようやく事の重大さに気づいた。
水深十メートル付近にいると思っていた私は、いつの間にか深い海底に落ちる潮、ダウンカレントに引きずり込まれているのだ!
私は必死で足ヒレを蹴った。無我夢中で、上へ、上へと両手で重い水の層をかく。頭上には、いつもはキラキラ光って、見ているとリラックスできる太陽が、今は彼方へ遠ざかって行くような恐怖の光を放っている。
心臓がどっくん、どっくんと大きな音をたてる。その音に呑み込まれてしまいそうだった。
はっと気付いて、私はタンクの空気をBCジャケットに送り入れる給気ボタンを手探りで押した。
ブシューッ。BCジャケットが少しずつ膨らんで、身体が軽くなっていくのを感じた。
どれくらいの時間だったのだろうか。十秒にも、十分にも思えた。
突然身体がぐいっと引き寄せられ、誰かが私のBCジャケットの排気ボタンを押していた。
見知った顔が目と鼻の先にぬっと出た。ベニータだった。ボートの操船をポリーにまかせ、急いで潜ってきて私を海面に引き上げてくれたのだ。
ふーっ。ユミコさんはそこまで一気に話すと、大きく息を吐いた。
「怖かった?」
私は小さな声で聞いた。
「うん。このまま落ちていってタンクの空気がなくなったら、私は死んでしまうんだろうかって思った」
そう言って、ユミコさんは水平線の方を見つめた。
「でもね、それとは反対に、自分の目に映っている世界が、あまりにも、あまりにもきれいで、もうろうとした頭で、ああ、気持ちいいなあって思ったの。まるで青いシャンパングラスのなかに飛び込んだみたいだった。きらきら光る無数の泡に包まれながら、この泡みたいに自分も消えてしまえたら、気持ちいいだろうなあって」
私はユミコさんの言葉を聞きながら、危険な状態で見惚れるくらい美しい光景って、どんななのだろうと想像した。サイダーをグラスについだときの様子を思い浮かべてみたが、それはただ、泡が弾けてシュワーッという音が数秒しただけだった。
「ねえ、どうして、細かい泡がまわりに漂っているから、危ないってわかったの?」
私は素朴な疑問を口にした。
「海のなかで、泡が自分より先に上っていかないなんてことはないからよ。泡はどんどん小さくなって、速くなってあがるから。細かい泡が自分のまわりにあるのは、潮が泡を海底に引き込んでいたから。私の身体と一緒にね」
ダイバーはそんな危険をおかしてまで、どうして海に潜るんだろう。魚を捕るわけでもないのに、と私は思ったけれど、それは口に出さないでおいた。
地上に惜しみなく光を注いでいる太陽に目を細めながら、ユミコさんは続けた。
「あのときは痛い目にあったけど、いい経験になった。自分を過信したり、自然の力をあなどるとどんなに怖いかがよくわかった。人間なんて海のなかにいたら小さな魚よりも微力だもの」
「海は、毎日、毎時変わる」と父さんは言う。
私とタリイに「同じところに泳ぎに行っても、昨日と同じだと思っちゃいけない。海は生きているんだから」と、いつも言う。
ユミコさんの話しと父さんが言っていることは、きっと同じことなのだろう。
近くに止めてあるボートの底に、波がちゃぷちゃぷぶつかる音に耳を傾けながら、私はぼんやりとそう考えた。
■七章 無人島で
●漂流
「おーい、ショロショロ引き上げるぞー」
タピオカとむすびとトミーが焼いてくれた魚でお腹いっぱいになって、ヤシの木陰で気持ちよくまどろんでいた私たちは、その声で重い腰をあげた。
タリイはいつの間に採ったのか、私たちはシジミと呼ぶ小さな貝を持って得意そうな顔をしている。シジミの味噌汁が大好きなおばあちゃんに、おみやげのつもりなのだろう。
ボートが水底につかなくなるまで、みんなで沖へ押して、トミーの「いいぞ」という声で順番にボートに這いあがった。
「マリ、お前はそっちじゃなくて、こっちに座れ」
あ、そっか。私もユミコさんも左効きだから、つい二人で同じ側に座ってしまう。揺れるボートの上では利き手でつかまるほうがラクだから。でもこんなに小さいボートはバランスが大事なのだ。
夕焼けにはまだ間がありそうだった。遠くに見えるロックアイランズがシルエットになって、マッシュルームのような島の形がきれいにふちどられている。
「少し風がでてきたな、水平線が波立ってる。スコールがくる前に帰ろう」
そう言うと、トミーはコバルト色の海へ舵を切った。
ゴン、ゴンと、ボートの底に当たる波の振動を全身に受け止めながら、外海を快走した。
海面は濃い群青色で、ときおりトビウオが海面をシュルシュルっと飛ぶ。魚というより鳥のようで、見ていて面白い。
と、突然、すーっとボートのスピードが落ちた。
「どうしたの?」
「見ろ! 鳥山だ。すっげえ!!」トミーが色めきたって叫ぶ。
立ち上がって前方を見ると、百メートルくらい先に何百羽という海鳥がかたまってハンティングをしている。
「うわあ、すごーい!」ユミコさんも声をあげた。
「見てみて。魚があんなにジャンプしてる。大きな魚に追われてるのね」
海面でぴょんぴょん跳ねている小魚を、滑空してきた海鳥があっという間にキャッチした。きっと、海の中ではものすごいバトルが繰り広げられているだろう。
釣りに目がないトミーが、こんなに大きな鳥山を黙って見過ごせるはずがない。すでにしかけの準備をしてボートの上を移動しはじめた。
こうなるともう先は見えていた。大物がかかるまで黙ってトミーに付き合うしかない。でもこれだけの鳥山なら十匹くらいあっという間だろう。
私はそう考えて、鳥山から離れて遠巻きに回りだしたボートに身を任せた。
ユミコさんは「すごい、すごい!」を連発しながら、ボートのへりから身を乗り出して群青色の海中を覗いている。
私の予想どおり、トミーは次々と魚を釣り上げた。
「ほーら、きたぞ」
「どうだ、今度は大きいぞ。マンボウか?マンタか?サメか!?」なんて冗談を言いながら。
久しぶりのヒットにトミーは上機嫌だった。
ボートの上にはバンバンと飛び跳ねるカスミアジとツムブリが二匹。このぶんでいくと釣果は二桁になるだろう。今夜はごちそうだ!と、私もニンマリした。
おかしいなと思ったのは、トミーがトローリングをはじめて十分か二十分くらい経った頃だった。最初はあれほど順調に釣れていたのに、途端に糸が引かなくなったのだ。
トミーは急に口数が少なくなって、ボートの位置を少しずつ移動させている。
海面では小魚がびゅんびゅん飛び跳ね、群青色の海の中では魚の黒いかたまりが渦を巻き、そのなかに大きなロウニンアジか何かが、繰り返し突撃しているのがボートの上からでも手に取るように見えるのに、トミーが流した釣り糸はその後一度も引かれることがなかった。
トミーも、タリイさえもおかしいと感じているようだった。
それでもトミーはあきらめる様子はなかった。なかなかお目にかかれないビッグな鳥山なのだ。おばあちゃん流に言うと「三度の飯より釣りが好き」なトミーからすれば、荒野で金塊を発見したようなもの。ここで大物が釣れないとなると面目まるつぶれだ。
トミーは半分意固地になって糸を流しているように見えた。
小一時間も過ぎただろうか。風がますますあがってボートの横揺れが激しくなってきた。波頭に白波が立ち、波のうねりのアップダウンも大きくなってきた。
風で身体も冷えてきた。
「トミー、もう帰ろうよー」
私はとうとう声をかけた。
「帰ろー。腹へった」とタリイも言う。
「そうね、帰りましょう。風も強くなってきたし」
ユミコさんが言ったからか、ようやくあきらめたトミーはリールに糸を巻き取った。それでもまだ視線は鳥山を見据えている。よほど後ろ髪を引かれるのだろう。
西の空がぼんやりしたオレンジ色にかすんでいた。頭上の空はまだ明るいが、私たちが帰る方向には黒いぶ厚い雲が広がって雨を降らせていた。あのスコールがこっちに来るかも知れない……。
トミーも同じことを感じ取ったのだろう。遠くの雨雲を見るなり、真顔でエンジンのスロットルを全開にした。
舳先が波の壁に向けて立てられ、ヤマハのエンジンがブロロロンと音を立てて勢いよく波のてっぺんに乗るとスロットルをゆるめる。ボートは波の頂上から滑り落ちる。その瞬間、身体がふわっと浮いて、一瞬あとにドシンと尻もちをつく。
横でユミコさんが「わー、ジェットコースターみたい!」と声をあげた。
ボートが波の谷間に落ちるたびに、私たちは尻もちをつき、クーラーボックスが飛び跳ね、後の方でエンジンカバーがカタカタと音を立てた。
私の後ろに座っていたはずのタリイは、いつの間にかちゃっかりと大きなトミーを風よけにして、彼の背後で身体をまるめている。私とユミコさんは、冷たい風と尻もちを避けるために、ボートの上にべたっと腹ばいになった。まるで釣り上げられた巨大な二匹のマグロみたいに。
バン、バン、バン、振動はますます強まった。ボートのへりよりも波先の方が高く、黒い山のような三角波が幾重にも盛り上がっては消えていく。
あと一時間もこうして波に揺られなくちゃいけないのか。きっついなあ。そう思いながら少し顔をあげると、ボートのすぐ脇で何かが跳ねていた。その気配にユミコさんも顔をあげた。
「あ、イルカ!」
波間のあっちこっちにイルカの背びれが見え隠れしている。
「わあ、いっぱいいる」
イルカの群れがボートを伴走するように並んで泳ぎ、そのままボートと同じタイミングで波に乗って、すーっと滑る。
「イルカがサーフィンして遊んでる。気持ちよさそー」
「子供イルカもいる。かわいいー!」
私とユミコさんとタリイは夢中になって、イルカたちが波乗りをする姿を見ていた。
そのときだった。
ひときわ大きな波の壁が前方に見え、一呼吸おいて船底にドッシーンと大きな振動が伝わってきた。次の瞬間、ボートに大量の海水がなだれ込み、うしろのほうでジューッという音を立てて水蒸気があがった。波の勢いでエンジンカバーが吹っ飛び、エンジンに海水がかかってしまったのだ。
トミーが「クソッ」と口を鳴らして、急いでセルモーターをまわす。もう一回、また、もう一回。だが、エンジンはかからない。
まずいな……。トミーがこわばった表情で、何度も何度もエンジンをかけようと試みたが、島の男たちが絶賛する『世界でナンバーワン!』のヤマハのエンジンは、息を吹き返さなかった。
「だめだ、エンジンがやられた」
ボートエンジニアのトミーの口からこぼれたその言葉は、私たちを絶望のどん底に突き落とした。
●無人島漂着
動かないエンジンと、大きなクーラーボックスと、四人の人間を乗せたボートは、波間に浮かぶ木の葉のように、縦横に揺られ続けた。これまで父さんのボートで数え切れないくらい海にでているが、こんなに大きなうねりに巻き込まれたのははじめてだった。
……転ぷくするかも知れない。
みんな心のなかでそう思っていたはずだ。誰もが必死になって船べりにしがみついている。
「ねえ、どうするの?」
私は声荒げてトミーに聞いた。
「ダイジョウブだ。このままの方向で流されていけば、あの環礁に着く。そうしたら浅瀬に降りてボートを押して島にあがるんだ」
トミーの指す方角には、確かに岩っぽい環礁があった。そこだけ水の色が薄くなって白い波が立っている。トミーの言うことはとてもだいじょうぶそうには思えなかったけれど、誰もどうすることもできない。
ユミコさんも不安げな表情をしている。私は心のなかでダイジョーブ、きっとダイジョーブと、呪文のように繰り返した。
ボートは縦にも横にも揺られながら、しだいに環礁の方に流されていった。
近づいてみてわかったことは、岩っぽい浅瀬は海にV字形に張り出していて、先端のほうは波しぶきが激しくあたっていることだ。
じっと波を見ていたトミーが、「あそこは無理だ。もっと先まで行ければ、もっとマシかもしれない」と言った。
「うまく回り込めたら飛び込むぞ。いいか、オレの合図で飛び込め。そうすればダイジョーブだからな」
いつになく険しい顔でトミーがそう言うと、私たち三人は無言で見つめ合った。声はでなかった。
トミーの考えは、V字の張り出しの裏の浅瀬にボートを乗り上げようとしているらしかった。
家を出る前に父さんが「今日は大潮に近いぞ」と言っていたが、それが今の私たちにラッキーなのかアンラッキーなのか、私にはわからなかった。
五分か十分か、本当は数十秒だったのかも知れない。トミーの合図を待つ時間は怖ろしく長く感じた。
「いくぞ。浅瀬についたらボートから飛び降りろ!」
怒鳴ったトミーが、舳先にくくりつけてあるロープを手に、素早く海に飛び込む。水しぶきをあげながら泳いでいって浅瀬にはい上がり、ロープを引っ張って舳先を環礁のほうへ向けようとしている。
が、トミー一人の力ではボートは思うようにあやつれない。浅瀬の上で波に押されたり引かれたりしながら四苦八苦している。
私たちはボートの上でなすすべもなく、トミーが苦戦する姿を見ているだけだった。
しかし、流されながらもボートはぐんぐん浅瀬に近づいた。ラッキーなことに潮が満ちはじめていたのだ。
「波がきたら、その瞬間にこっちへ降りろ!」
トミーの声でユミコさんが波が盛り上がったタイミングをみはからって、ボートから飛び降りた。波に押し倒されながらも、何とかトミーのところまで行ってロープをつかむ。
私とタリイは互いに目を合わせ、船べりから転がり落ちるようにして岩礁の上におりた。
ザッパーン。
ちゃんと立とうとすると、寄せてきた波で身体が前に押し倒される。無我夢中だった。私はつんのめるような格好で、でっぱった岩に両手をついて這いつくばった。立とうと思っても、波に足がすくわれて身体を思うように動かせない。
「気を付けろ! ボートにぶつかるな!」
トミーの叫ぶ声がする。すぐ横で、バッシャーン、バッシャーンと波がボートを叩く音が響く。頭をぶつけでもしたら一巻の終わりだ。心臓がどっくん、どっくんと波打った。
飛び跳ねるボートのへりに必死でしがみついてようやく立つと、水深は思ったより深く、私の胸ぐらいまであった。引き波がくると、踏ん張った足先にビーチサンダルのゴムのハナオがくい込んで、親指の付け根が強烈に痛い。
波の力でさんざん押され、引かれ、岩礁の上でもみくちゃにされながら、私たち四人は浅瀬に向かって力いっぱいボートを押した。タリイはあごまで水につかりながら、全身を支え棒のようにして押している。
力の限りにボートを押していくと、しだいに水深は浅くなっていった。
深さが私の腰ほどになり、波の勢いも薄れると、水底はところどころに白い砂地が見えて、エダサンゴが群生している。
その浅瀬をさらにボートを押した。ボートの底がサンゴにこすれてガリガリッと音をたてる。私は何度もサンゴの岩につまずいて転びそうになった。
「もうすぐだ。もう少しだ」トミーのかれた声が波音にまじる。
砂浜はほんとうにもう少しだった。
足の裏にとがったサンゴの感触がなくなり、ビーチサンダルが砂にくい込むと、私たちは最後の力をふりしぼった。全身に力を込めているつもりだが、ほんとうに力がでているのかは自分でもわからなかった。
ボートの底がズズーッと砂をけずった。
トミーがロープをひっぱって、ボートが流されないように浜に突き出た大きな岩にまわして留める。
私はよつんばいで砂浜へあがり、そのまま倒れるようにつっぷした。あれほど熱かった砂はすっかり冷めて、ひんやりしていた。身体がばらばらになったみたいだった。
「みんな、だいじょうぶか、生きてるか」
「もうだめ。死んだ」
「なんとか、助かった……みたいね」
みんなも砂浜に倒れ込んでいた。顔を上げて振り返ると岩礁の縁にぶつかる白い波がずっと離れたところに見える。その距離の遠さに、ああ、助かったんだ……と、ようやく心からほっとした。
●奇跡の火ダネ
私が放心したように座っていると、トミーがクーラーボックスに残っていた缶ジュースを持ってきてくれた。パコッとリングを引いて一口飲み込むと、液体が喉から落ちていく。甘いオレンジジュースが身体にじわっーと染みこんで、生き返るようだった。
「暗くなる前に火をたこう」
トミーがぐったりしている私たちを見ながら、鼓舞するように言った。日が落ちてあたりは薄暗くなりはじめている。濡れたシャツが冷たく身体に張り付いて、昼間は心地よかった海風が刻々と私の体温を奪っていく。
「ほら、マリちゃん。海で砂を落として、これで拭いて」
ユミコさんの言葉に、自分が全身砂だらけになっていたことに気づく。ユミコさんが防水バッグの中から、滝や海に行くときにはいつも携帯している、柔らかいゴムのような不思議な感触のタオルを手渡してくれた。
私はよろよろと立ち上がった。
重い身体で砂浜を歩いて海に入り、腰くらいの深さで深呼吸して頭から潜った。泳ぎながら身体についた砂を洗い流す。海水はまだ熱が残っていてぬるく、海の中にいるほうが温かかった。
私とユミコさんが乾いた枯れ枝を集めた。タリイはヤシの木に登って、実をいくつか砂浜に落とした。
さいわいビーチにはヤシの木がたくさん生えていた。古く枯れたヤシの実が無数に落ちていたし、タリイがいるからヤシジュースが入った若い実もとれる。飲み水はだいじょうぶだ、と私は思った。
ビーチに落ちているヤシの実はたいてい湿っていて使い物にならなかった。私は林のなかまで踏み入って、なるだけ乾いた古いヤシの実と小枝を探した。
ヤシの実と枯れ枝を両腕に抱えて持っていくと、トミーはボートから持ってきた釣り用のナイフでヤシの実の殻を裂いた。タリイが殻のなかからモシャモシャした繊維を引っ張り出している。私とユミコさんは砂を掘って火床を作った。
みんな無言で自分ができることを黙々とやった。
と、ぱっと顔を上げたユミコさんが、「ねえ、火は? ライターはあるの?」と、大きな声でトミーに聞いた。ライターかマッチがなければ、みんなでこんなことをしていてもムダになる。
「ああ、ボートにライターがあるはずだ」
「よかったあ」
ユミコさんは心底ほっとした表情で、また下を向いてひたすら砂をかき出しはじめた。
「くっそー!」
ボートにライターを探しにいったトミーの吐きすてる声が聞こえた瞬間、私たち三人は手を止めて、いっせいにボートのほうを見た。
ライターは潮で錆びついて火を灯さないばかりか、肝心のシュッ、シュッと回るはずのやすりが回りさえしなかったのだ。
太陽がカンカンに照っている真っ昼間ならまだしも、暗くなり始めた今では私たちに打つ手はなかった。砂浜には脱力感だけが漂っていた。神様に完全に見放されたみたいな気分だった。
しばらくボートの上でかがみこんでいたトミーが、何を考えたのか、ボートからはずしたバッテリーをビーチに持ってきた。
「どうするの?」三人の声が和音のように重なる。
「もうこうなったら、いちかばちかやってみる」
トミーはグアム島にいたときに、仕事仲間があやまってカーボン製の釣り竿をバッテリーの上に置きっぱなしにして、ショートさせたことを思い出したのだという。
「あいつはほんと大バカだよな、あやうく船を燃しちまうところだったんだぜ」
そう言われても、トミーが何をしようとしているのか私にはわからなかった。
「みんな、二枚貝を探してくれ。なるべく大きいやつを」
トミーの指示に、私たちは波打ち際を目をこらして歩いた。
白い砂浜をつま先でまさぐりながら少しずつ進むと、小さなシャコ貝の殻がいくつも落ちていた。誰かが中身を食べて捨てたようなきれいな殻だ。
「あったよ!」
「よし。やってみるか」
トミーはむすびを包んであったアルミホイルをねじって、鉛筆より細いひも状にした。アルミホイルはピクニックをした無人島を引き上げるときに、ユミコさんがゴミを一つ残らず片付けて、ビニール袋に入れて持ち帰ったのだ。
トミーはそれをバッテリーの片方の電極に巻くと、シャコ貝二枚の殻の内側に燃えやすいヤシの繊維を詰めて、それでアルミホイルのひもの真ん中あたりをはさんだ。
「みんな、危ないから離れてろ!」
トミーの声に私たちはいっせいに後ずさりした。
ビーチに転がっていた枯れ枝をつかんだトミーは、その枝でもう一方のアルミホイルのひもを別の電極に押しつけた。
ビシッ。
「あちっ」
アルミホイルは過電流で赤くなって燃えつきた。あっという間だった。
トミーはすぐさまシャコ貝のなかでくすぶっている、もしゃもしゃの繊維に、ふーっ、ふーっと息を吹きかけた。貝のなかの火ダネは、ぽっと赤くなった。
「おお、ついたぞ!」
トミーはタリイがむしって燃えやすくしたヤシ殻の繊維に、慎重に火ダネを移した。
ぼうっと火があがった。
「やったあ!」
「うそみたい……」
本当にそれはマジックを見ているみたいだった。
ヤシの繊維と小枝を次々に焚いて火を大きくした。火はみるみる間にユミコさんが掘った穴いっぱいに広がっていった。私たちは駆け寄って、その奇跡のような火を食い入るように見つめた。
「すごい、すごい」
「信じられない……」
「トミーって天才だあ!」
三人の口から次々に賞賛の声があがり、炎で赤く照らされたトミーの顔はいかにも得意げでうれしそうだ。
グアム島での仕事がいやになって(ほんとうはクビになったんだ、という人もいた)村に帰ってきたものの、自分の家にいるのも肩身が狭くて我が家に転がり込んでいるトミーだが、今日ばかりは彼をすっかり見直した、というか心から尊敬した。
高層ホテルが立ち並ぶグアム島のような都会で仕事がバリバリできるより、無人島で火がおこせるほうがいい。
与えられた仕事を人より早くこなせるより、困難なときに知恵を出して乗りきれる方がいい。そのほうが、ずっと、ずっといい。
「な、オレ、グアムで優秀だったんだぞ」
炎で赤く照らされた得意満面なトミーが、これまでになく大きな存在に思えた。
●ユミコさんのケガ
赤々と燃えるたき火を囲んで、私たちはようやくほっとした。
火があるって、なんて心強いことなんだろう。この火がなければ、私たちは夜のビーチで服も乾かせず、寒くて、もっとずっと心細い思いをしたはずだ。
空を見上げると、まんまるに近い月が輝いて、白砂のビーチをびっくりするくらい明るく照らしている。
トミーが言うには、ここはパラダイスアイランドの北にあるガルメウスという環礁ということだった。
「この環礁は、まわりの島にぶつかったうねりが寄せるところだから、うねりうは大きいし、満潮じゃないとボートを出し入れしにくいから、あんまり人はあがってこない」
「ええっ、じゃあ私たちは?」
「きっと村の人たちが夜明け前から探しにくるから、ダイジョーブだ」
トミーはそういうと、ヤシの枯れ葉の芯を火の中に投げ込んだ。
「ここは人はこないが、ウミガメがくるんだ。今晩あたりこの浜にも産卵しにあがってくるかもな」
ゆらゆら揺れる炎を見つめながら、私はウミガメが砂浜で産卵をする様子を思い浮かべた。
ウミガメはピンポン玉くらいの卵を、時間をかけて一個ずつ産み落とす。産卵をはじめたら終えるまで動かないから、みつかるとすぐに人間に卵を横取りされてしまう。この環礁はカメにとって安心な産卵場なのだろう。
「ウミガメがきれいな珊瑚の陰で寝ていたり、のんびり泳いでいるのを見ると、私はいつも、ウミガメっていいなあって思ってた。私もウミガメになりたいって。でも子孫を残すのは大変なのね」
ユミコさんはそんなことを言いながら、Tシャツをたき火で乾かしている。
足もとを見ると、ビーチサンダルを履いていない。そればかりか、足の甲に血が流れている。
「足、ケガしたの?」
右足のくるぶしの上には、何かでひっかいたような傷が走り、みみずばれのようにふくらんでいる。腕にも点々と赤いかぶれのような跡がついている。シロガヤに触ってしまったのだろうか。
「うん、ボートを押したときにサンゴで切ったみたい。でも、これくらいだいじょうぶよ」
ユミコさんは平気な顔をつくろったが、サンゴで切った傷は痛いし、あとで猛烈にかゆくなることを私たちはよく知っている。傷をほうっておいて化膿すると、ぐじゅぐじゅになってしまう。
「クーラーボックスに残っている水をかけて、傷口を洗おう」とトミーが言った。
「だいじょうぶだって」
ユミコさんは遠慮したが、「今はダイジョーブでも、あとで大変なことになるぞ」と、トミーのいつになく強い口調にユミコさんは黙った。みんなに心配をかけまいとして、痛いのを無理してがまんしているのだろう。
「飲み水はヤシの木があるから、心配いらないよ」タリイが言った。
クーラーボックスにあった水で傷口を洗い、防水バッグに入れてあったタオルをあてて、ハンカチ裂いてしばった。
「かゆみがでてくるけれど、薬も酢もないからなあ……」
トミーがそう言ったとき、私はハッとした。
「薬草があればいいんだよ」
「薬草?」
「前におばあちゃんが教えてくれた島の薬。何て言ったかなあ。大きな木の割れ目に生えている緑色の長い葉っぱ。それをあぶって傷口にあてると、たいていの傷は治るって」
「マリはその植物がわかるのか?」
「見ればわかるよ。林にはたいていあるもの。私、探してくるよ」
「ぼくも行く!」
「じゃあ、ボートに懐中電灯があるから持ってくる。ちょっと待ってろ」とトミーが立ち上がると、
「その懐中電灯って、つくの?」タリイが疑いの目でトミーを見上げた。
「だいじょうぶだ。この前、夜釣りに行ったときに使ったから。ライターがつかなかったのは、オレもおやじさんもタバコを止めたからだ」
ぶつぶつ言いわけをしながら、トミーはボートへ歩いて行った。
年季のはいった懐中電灯のスイッチをいれると、か細い光の輪が照らし出された。が、スイッチを消してもいないのに、数秒で光は消えてしまう。
「ほらあー」タリイが抗議の声をあげる。
「だいじょうぶだ。消えたら、こうして叩けばまたすぐにつく」
トミーは消えた懐中電灯をごんごんと叩いた。すると、またぼわんとか細い光の輪が広がる。
「なっ」
トミーの「なっ」はまったくもって説得力に欠けていたが、ともかくその灯りをたよりに、私とタリイは浜辺の先にある林に踏み込んだ。
薄い雲の間から、こうこうと輝く月と、散らばる星々が見えた。
いつ消えるともわからない、か細い光の輪だけを頼りに、そろりそろりと林の暗闇のなかを進んだ。ビーチはあんなに明るいのに、樹木が生い茂った林の中は思ったより暗い。
頭のなかで、なんであんなことを言っちゃったんだろうという後悔と、ユミコさんの傷を治さなくちゃという使命感がいっしょくたになって、ぐるぐるまわった。
「うーーーわっ!」
「ぎゃあ!」
「あははは……」
「タリイ、ふざけるのはやめて!」
父さんたちと夜のヤシガニとりについていくタリイは、こんな真っ暗なジャングルでも慣れているのだろう。懐中電灯の明かりの前を平気な顔ですたすた歩いている。
ほんとうのことを言えば、私は怖かった。暗闇は大の苦手だ。
私は浜辺の方向がわからなくならないように、長い棒を左手に持って砂上に線を引きながら歩いた。
ふと気がつくと、前を歩いていたタリイがいない。
「タリイ、どこ? ふざけてないで出てきて。タリイーッ!」
返事がない。どこに行ったんだろう。
あっ。灯りが消えて真っ暗になってしまった。頭上でヤシの葉ずれがざわざわと音を立てる。私は慌てて懐中電灯をごんごんと叩いた。
ぼわーん。弱々しい光が戻った。
ふうーっ。でもまたすぐに消えるかもしれない。今度はつかなかったらどうしよう。そう思うと足がすくんだ。引き返そうか。今なら浜まで走ってすぐだ。
そう思う一方で、頭のなかにユミコさんのみみずばれになって出血している足が浮かんだ。だめだ。探さなくちゃ。あの木は私しか知らない。
傷みをがまんしているユミコさんの顔が、私を暗い林のなかに押しとどめた。
私は歌を歌った。大好きなレイチェルの歌や、学校で流行っているアメリカンポップスや、日本の演歌も知っているパートだけ繰り返した。それでも暗闇の恐怖はどんどん膨らんでくる。私は夜空を見上げた。
天頂には、電気があるバベルダオブの家からでは見られないような、さんぜんと輝く星ぼしが、背の高い木々の間にひしめいている。
ひとつひとつの星がこんなに明るいなんて。あと少しすれば月がもっと高い位置に昇ってくる。そうしたら、懐中電灯の灯りに頼らずに歩けるかもしれない。そう考えながら、私は前進した。
おばあちゃんと林のなかを歩いたときは、あの木は三十メートルくらい行くと、あ、またここにもある、というくらいたくさん生えていた。
しかし、ここでは私が思うほど簡単には見つかりそうになかった。
どれくらい歩いただろうか。いつの間にか、足もとはさらさらした砂ではなく、湿った葉を敷きつけたようにふかふかしていた。
私は立ち止まって耳を澄ませた。頭上の高い木々が風に揺れて、ざわざわと笑っているように騒ぐ。私は葉ずれのなかにザザーッという音を探した。
波の音が聞こえない。まずい。波の音がしないと浜の方向がわからなくなってしまう。どうしよう。
私はあたりをゆっくり懐中電灯で照らした。
あっ、あの木は……。
ぼんやりした輪のなかに、おばあちゃんが教えてくれた木によく似た木が立っていた。夜の暗闇のせいだろうか、それはずいぶんと大きな木に見えた。目の錯覚かもしれない。私はさらに近づいて下から電灯を照らした。本物だった。
小さな環礁には不釣り合いなほどの大きな老木だった。
探していた葉は、木の上の二股にわかれた部分に生えていた。私の身長では背伸びをしても届かない。まったく、タリイはどこ行っちゃったんだろう。弟ならわけなく登れるのに。私は急に腹が立ってきた。
ともかく、登れるかどうかやってみるしかない。
そう決心して、地面から盛り上がった木の根に懐中電灯を上向きにして立てかけた。
弱い光の輪のなかに映し出され大木は、息を殺してじっと見下ろしているように見えた。恐ろしく不気味だった。
私はユミコさんの顔を思い浮かべて、勇気をふりしぼった。
でっぱったこぶに右足をのせ、もう少し高いところにある節に左足をかけて踏ん張り、両腕で幹に抱き着いて身体を上に持ち上げた。うまくいきそうだ。腕を伸ばしてあの太い枝さえつかめば、もっと上に登れる。そうすれば葉っぱに手が届く。私は右腕を精いっぱい枝のほうへ伸ばした。そのときだった。懐中電灯の光が、ふっと消えた。
枝をつかもうとして伸ばした手が宙をきり、私は完全に身体のバランスをくずした。
あああああっ……。
●デレブ(精霊)の声
それは、ふにゃふにゃした柔らかな、おおいのようなもののなかにいるみたいだった。
暗いけれど、真っ暗というわけではない。横の方に光が差し込むすき間が何か所かぼんやりと見える。すき間は閉じたり、開いたりしている。あれはなんだろう。
私は重い頭でそこへ近づこうとしたが、身体をささえている地面がぶよぶよしていて、両手をついても、うまく身体を起こせない。空飛ぶじゅうたんの上にいるみたいだ。それに、この感触。ぬるぬる、ベタベタする。ここは一体……。
私は、いつか映画で観た兵隊さんのようにほふく前進をして、光が射すすき間のひとつにじりじりとにじり寄った。ぶよぶよする壁のようなものにつかまりながら、恐るおそるすき間から外を見る。
こ、こ、これは!
私は目を見張った。とても信じられなかった。私は死んでしまったのだろうか。私は魂だけになって浮遊しているのだろか。
そこに広がっている世界は、青い海の底だった。
『よおく、見ろ。目を開いて、見ろ』
私はびくっとした。水の底から響いてくるような低い声が身体にびりびりと伝わった。私は身を固くした。
『おまえたち、人間が、まだ、いない世界だ』
低い声がまた言った。
その声に言われるまでもなく、私は目に映る世界をまばたきもせずに見ていた。
明るい太陽の光がチラチラと白砂の海底を射し、黄色やブルーやオレンジの魚たちが、サンゴ礁をつついている。カマスやアジのウロコがキラリと反射し、ナポレオンやウミガメが悠々と泳いでいる。海底は、白やピンクやうす緑色のサンゴがびっしりおおいつくし、花畑のようだ。
私が覗いているすき間は、ときどきゆらりと海のなかを移動したが、どの方向にも色とりどりのサンゴ礁が広がっていた。それは驚くばかりの美しいサンゴ礁だった。
『おまえたち、この世界、こわした』
低い声は言った。
『サンゴは、島を守っている。サンゴは、小魚を守っている。サンゴがなくなれば、島は砂を失い、木々を失い、海は魚を失う。見ろ。サンゴには、小魚が集まる。小魚が集まれば、それを食う魚が集まる。小魚がいるから、おまえもここに来た』
低い声がそう言ったとき、私が覗いていたすき間が大きくなり、そこから細く小さな魚が忍び込んできた。小魚は大きく開かれたすき間のあちこちを突きだした。
びくん。
空飛ぶじゅうたんのようなものが斜めに傾いた。薄暗い空洞に、くっ、くっ、くっ、と、まるで笑っているような振動が伝わってくる。
あっ……。私は声にならない声を漏らした。
ここは、もしかして、もしかして! あの、大きなエイ、四メートルもあるマンタの体の中だ。私はマンタのエラから海の中を覗いているのだ。
私がそう感じたとったことがわかったのか、マンタの体がびくんと動いて、大きく半回転した。身体がごろんと横倒しになる。トランポリンの上でごろごろっと転がったように。
バッシャーン。
水面を力強く蹴ったような水音が響いたかと思うと、私の体はずるずると後方に滑り落とされた。かすかにヒューヒューと風を切るような音がする。
私ははいつくばっていって、マンタのエラにようやくつかまり、恐るおそる外を覗いた。
それは、足がすくむような光景だった。
眼下には、どこまでも青い、青い、海が広がっている。
紺碧の海は、なだらかなサンゴ礁に近づくにつれてじょじょに青の色を変え、水深が浅くなっているサンゴ礁の縁に波がぶつかって、白いレースのようなふちどりを描きだしている。
サンゴ礁の先には白い砂浜があり、砂浜はずっと横にのびている。
その島に人の気配はなかった。美しいサンゴ礁と、足跡がない砂浜と島があるだけだ。
私は空中からその小さな島を見下ろしていた。
『見ろ。島に、はじめてきた、人間だ』
海の中と同じように、また、低い声が響いた。
島に一隻のカヌーが向かっていた。木をくり抜いて造った船体に、パンダナスで編んだ帆をあげ、海の上を滑るように走っている。それは、海にのまれてしまいそうなくらい小さなカヌーだった。
パンダナスの帆が風を切る音と、踏み舵の板が水をかく音が私の耳もとに届いた。それは、遠い昔に聞いたような心地よい音だった。
カヌーには裸の男たちが乗っている。黒光りした背中、筋骨隆々とした腕と足、腰には植物で作ったふんどしのようなものを巻いている。なぜか、おじいちゃんのひいおじいちゃんの、そのまたひいおじいちゃんに会ったような気がした。
船底には芽がでたヤシの実が積んであった。シャコ貝の殻で作ったちょうなも見える。カヌー船体や、その横に張り出した浮き木は、すべてヤシ縄でくくりつけられてあった。
そんな細かなところまでが、はっきりと見えた。
『人間が、はじめて、島にヤシを埋めたとき、島には、植物も、サンゴもあった。
ヤシに、実がなるには、五年かかる。島ができるには、千年かかる。島は、おまえたち、人間がくる、ずっと前から、生きている』
マンタのお腹のなかで聞く低い声は、私の身体の深いところへ響いた。意識はまだもうろうとしていたけれど、目に見える光景はどこまでもクリアだった。
私は、気が遠くなるような遥か昔のような光景を、息をこらして眺めた。時間が止まっているようだった。
突然、マンタのお腹が斜めになって、身体が転がった。
あっという間だった。ものすごい吸引力でうしろへ引っぱられていく。まるで強力な掃除機に吸い込まれていくみたいに。
ぶっ、ぶっ、ぶわっ、という妙な音とともに、私の身体は開放された。目の前に灰色の煙りのようなものが尾を引いていく。マンタのおしりから、フンと一緒に噴き出されたようだった。
今度は身体がどんどん落ちていく感じがした。打ち落とされた鳥のように風をびゅんびゅん切って。私はこのまま落ちて海に叩きつけられるのだろうか。
だ、だれか、助けてえー!
一瞬、身体がふわりと浮いた。
空気も、匂いも変わった。
身体がひんやりとしたもので包み込まれている。とても奇妙な感触だった。足を動かそうと思っても、重いべったりした粘土に埋め込まれたみたいで、思うように身動きがとれない。
私がもぞもぞ動いていると、横で何かが動いた。首だけ曲げてそっちを見ると、まるい目だまがこっちを睨んでいる。
ぎゃっ。
こ、この目だまは……ヤスじいさんの獲物、マングローブクラブだ!
そこで私はようやく理解した。自分が海の水と川の水がまじわる沿岸に生えたマングローブの森に立っていることを。私の身体を包み込んでいるのは、泥だった。
縦横に伸びた私の足、いや、そうじゃない、マングローブの根にひたひたと水が上がってきた。潮が満ちてきたのだ。私の身体、いや、マングローブの幹は、刻々と水の中に沈んでいくようだった。水はどこまであがってくるだろう。私の胸、肩、首、まさか顔!
私はその考えを頭から追い払った。かんねんして目をつぶるしかなかった。
『見ろ。目を開いて、水のなかを、見ろ』
また、あの低い声がした。地を振るわすような声だった。
私はしぶしぶ薄目を開けた。
私の顔は、すでに茶色くにごった水のなかに沈んでいた。息は苦しくなかったけれど、目を見開いても海の中のサンゴ礁のように、遠くまではっきり見えない。私は低い声に「何も見えない」と言い返してやりたかった。
『見ろ。よーく、見ろ。根の下や根の陰を』
低い声がまたいった。
私は、泥のなかに縦横に伸びたマングローブの根の下を見た。するとどうだろう。根の陰に小さな魚の子供たちが隠れている。バラクーダの子供やアジの子供、ナポレオンの子供もいる。体長は、二、三センチくらいだろうか。ちっちゃな胸ビレをパタパタさせながら、根のすき間を泳いでいる。
『海の森は、魚のゆりかごだ。おまえたち、人間が、海の森を、こわせば、魚の子供が、育つ場所、なくなる。海に、魚がいなくなる』
低い声は言った。
『海の森は、自分の体から、葉を落として、泥を作る。エビやカニが、育つ』
私は、低い声の言っていることは、ほんとうだと思った。養分のある泥がなかったら、マングローブクラブはいない。とたんにヤスじいさんの困った顔が浮かんだ。
『海の森は、島から、土を守る。土がなければ、島は、木を失う。植物を失う。島は、なくなる』
次の低い声の言葉に、私は混乱した。マングローブの幹は固くてしっかりしているので、島の人たちは建材に使ったり、焚きつけにしている。それはいけないことなのだろうか。
低い声は続いた。
『海の森は、海を守る。おまえたち、人間が流した、汚れた水を、体で止める。海の森は、島を守る。大津波からも、守る。サンゴと同じ』
そうだ。ああ、そうだ。私はサンゴを壊した。漂流してボートを環礁に引き上げたとき、エダサンゴやテーブルサンゴをバリバリと壊してしまった。
海と島の神さまが怒っているのだ。私は海と島のデレブに魔法をかけられてしまったのだ。私の身体は泥のなかに埋められ、このままマングローブの木として、一生、島を守る役目につかされたのだ。
もし、父さんがこの森にやって来て、私と知らずにマングローブの枝や幹を切りはじめたら、どうしよう。どうしよう!
私は低い声に何か言おうとしたが、言葉がみつからなかった。悲しくて悲しくて、大声をあげて泣きたかった。けれど、木では声をだすことすらできなった。頭上から緑の葉が数枚はらはらと落ちただけだった。
涙があふれてきた。とめどなくあふれた涙が、ぽたりとこぼれ落ちた。
涙は私の足もと、マングローブの根もとでシュッという音をたてて、泥に落ちた。
すると、まるでそれが合図だったように、まわりの木の葉がざわざわと震動し、緑色の葉が次から次へと舞い散った。
『マリ、マリ、その葉をつかみなさい』
その声は低い声ではなく、おばあちゃんのあのやさしい声だった。
お、おばあちゃん?
『マリ、その葉をつかむのよ』
おばあちゃんの声に、私は落ちてきた一枚を根元で受けうけとめた。つやつやした緑色の葉っぱだった。
あ……葉っぱ。
それまで眠っていた遠い記憶が呼び覚まされたような、不思議な感覚が脳のなかを駆けめぐった。
「おい、マリ、マリ、しっかりしろ。だいじょうぶか!」
耳もとで男の人の声がした。
「おねえちゃん、ねえ、おねえちゃん!」
聞き覚えのある男の子の声もした。
重いまぶたをゆっくり開けると、二つの黒い影が私の上におおいかぶさるようにして覗き込んでいた。遠くのほうで木の葉がざわざわと騒いだ。
「……タリイ?」
「そうだよ。ぼくだよ。だいじょうぶ?」
「……葉っぱ、葉っぱは?」
「葉っぱ? ああ、ここにあるよ。おねえちゃんが握ってたよ」
弟の返事を聞き終えないうちに、誰かが私の身体を地上から持ち上げた。それはマンタのお腹のなかや、マングローブの木のなかでないことがわかった。ぐらぐらと不安定に揺れるその支えは、とても温かく心安らぐものだった。
うっすらと見えたのは遠くで光る星だった。月の光もこうこうと射しているようだった。
「マリちゃん、マリちゃん、だいじょうぶ?」
たき火の前でユミコさんが心配そうな顔で私を見ていた。
「……うん、だい、じょうぶ」
「まったく、マリは。自分のほうが助けられてりゃあ、世話ねえよなあ」と、トミーがぶつぶつ言った。
「ユミコさん、足は?」
私は思いだして、ユミコさんの足を見た。
「マリちゃんが、命・が・けで見つけてくれた葉っぱをあぶって貼ったら、だいぶいいみたい」
ユミコさんは「命・が・け」と、いかにもおかしそうに言った。
「……よかった」
私はそういうなり、砂浜に倒れ込むようにして眠り込んでしまった。夢は見なかった。深海の底で寝ているような、深い眠りだった。
●助け船
目を覚ましたのは、まだ夜明け前だった。たき火をたいた穴のそばに三人がまるまって寝ていた。
しばらく夜明け前の静かな世界をぼーっと眺めた。私は生まれ変わったような気持ちだった。
波打ちぎわにひたひたと波が寄せている。月はもう西の空に傾いて見えない。星だけがまだ名残惜しそうに照らしている。生まれたばかりの澄んだ空気に満ちた、地上の世界。ここにいられることが奇跡のように感じる。
私は大きく息を吸った。鼻と口でちゃんと呼吸できる。私はそのことがたまらなくうれしかった。
「お、マリ、もう起きたのか?」
目をこすりながらトミーが身体を起こした。
「マリちゃん、もうだいじょうぶ?」
ユミコさんもだるそうに砂浜から起き上がった。
「ああ~、もう朝? トゥタウ(おはよう)」
寝起きがいいタリイは、起きるとすぐに林のなかに走っていった。
昨晩、タリイがヤシガニを捕まえて戻ってから、だいぶたっても私が戻らないので、トミーとタリイが林のなかを探しに来てくれたらしい。私は木の上から落ちて、意識を失っていたみたいだ。
タリイがすっきりした顔で戻ってくると、「おねえちゃん、飲みなよ」とヤシの実を私にくれた。ヤシジュースを一口飲むと、自分がものすごくお腹が減っていることに気づいた。そういえば昨夜から何も食べてない。みんなもお腹が空いているだろう。
「マリちゃんのヤシガニとカスミアジ、とってあるわよ」
ユミコさんが大事そうに防水バッグのなかからビニール袋を取り出した。何も食べていないのは私だけみたいだ。
たき火で真っ黒に焼いてあるヤシガニを割って身を食べた。身はばさばさだったが、ヤシガニ特有の甘い匂いが空腹感を刺激した。トミーが若いヤシの実を裂いてくれたので、なかの果肉を手ですくって夢中で食べた。ゼリーのように柔らかい果肉が、いつもよりずっとおいしく感じられた。
みんなもヤシの果肉を朝食にした。タリイは古いヤシの実を拾ってきて、なかについているコプラや、スポンジのような実をかじった。
「タリイがいなかったら、ヤシの実ゼリーも食べられなかったわね」
ユミコさんがそう言うと、弟はテレながらニッと笑った。
最初に、そのブロロロン……という音が遠くから聞こえたとき、誰もが錯覚だと思った、と思う。
ブロロン……ブルルル……。
浜に届いた音が現実だと知ると、みんないっせいに立ち上がって音がするを方向を見た。
トミーが素早く駆けだす。続いてタリイと私とユミコさんも続いた。
私は、あんなに早く走るトミーをはじめて見た。
カーブをえがいた砂浜を回り込むと、五十メートルくらい先に一艘のボートが留まっていた。トミーが振り向いて「みんな向こうに戻ってろ」という。
「なぜ?」
「いいから、向こうで待ってろ」
トミーは犬でも追い払うみたいに、私たちに手を返した。わけがわからなかったが、私たちはトミーの言うことに従った。
十分くらい待っただろうか。トミーが小走りに戻ってきた。
「このボートをあっちのボートにつないでえい航してもらう」
そう言ってから、トミーは声をひそめて続けた。誰かに聞かれてはまずいことを打ち明けるみたいな顔だった。
「あいつらはこの島にウミガメの卵をとりに来たんだ。密りょうだ。絶対に誰にも言わないという約束でボートをひっぱってもらう。いいな」
私たち三人は同時に首を縦に振った。
いくらかのお礼をしてえい航してもらうのだろう。この国はいろんなことがお金で解決すると、父さんが言っていたもの。
ボートへ歩きかけたトミーが振り向いて、「マリ、おやじさんにも絶対に言うなよ」と、私だけにクギをさした。
潮はかなりあがっていた。
父さんのボートを密りょうボートにロープでゆわえて、二艘はゆっくりと岩礁を突っきった。すでに岩礁の上の深さはじゅうぶんにあったから、今度はボートでサンゴをこするようなことはなかった。私は一人胸をなでおろした。
密りょうボートの上では男たちが朝食を取っていた。
皿の代わりのダンボールを広げて、その上にごはんとおかずの缶詰をどっさり乗せて、ぐちゃぐちゃに混ぜ合わせたローカル飯だ。ダンボールを囲んで座った四人の男たちが、めいめいに手でご飯をすくい取って口に運んでいる。私たちのボートにまでサバ缶の匂いが漂ってくる。
「おい、マリ、じろじろ見るな」トミーが小声で私を小突いた。
私は男たちが食べているご飯を見たのだが、トミーは密猟者の顔を見ているのだと思ったのだろう。
深い外海へ出ると、密りょうボートはすみやかに加速した。冷たい風がほおを切る。藍色の海は昨日とはうって変わってベタ凪だ。
私はボートの上から振り返って環礁を見た。
陽があたらずにひっそりとしている砂浜、高いヤシの木。その向こうにあの林がある。あの大木がある。なんとも言えない気持ちが私の胸を満たした。私はあの低い声をはっきりと覚えていた。
東の水平線にはオレンジ色の帯が、弧を描くように輝きだした。ちりぢりの雲が真っ赤に染まっている。もうすぐ眩しい朝日が顔をだすだろう。
私は光る水平線を一心に見つめ続けた。
■八章 約束
●別れ
部屋をでるとき、ユミコさんの荷物は驚くほど少なかった。日本から持ってきた荷物より、パラオのおみやげのほうがずっと多い。
「マリちゃん、よかったらコレ履いて。ダイジョーブ、足はすぐに大きくなるから」
ユミコさんは、プルメリアがついたステキなサンダルを私に差し出した。
「うん、ありがとう」
「ヤシの実は、日本に持って行けるんでしょ?」
タリイがちょっと心配そうに聞いた。昨日ユミコさんへのおみやげにと、弟は張り切ってヤシの実をたくさんとったのだ。
「ええ、だいじょうぶよ。入国のときに植物検疫で見せればジャガモンダイよ」
弟の顔がぱっと明るくなった。
「じゃあ、日本のみんなのおみやげになるね」
「うん、よろこぶわ。ありがとう」
ユミコさんは玄関に立っている母さんたちに向き直って、
「おとうさん、おかあさん、おばあちゃん、ほんとうにありがとうございました。すごく楽しかったです」と頭を下げて礼を言った。そして一人ずつに両手で握手をしてハグした。
「また遊びに来なさいね。こんどはコウモリスープの作り方も教えてあげるから」と、母さんが冗談を言った。ユミコさんは笑いながら目がしらをぬぐっている。
おばあちゃんが日本語でユミコさんに何か言った。
「おばあちゃん、何て言ったの?」すかさずタリイが聞く。
「今度来るときは、リュウマチの薬を買ってきておくれって頼んだんだよ。あと、キャベチンコーワもね。日本の薬がいちばん効く」
おばあちゃんは、こういうところはちゃっかりしている。
ピックアップトラックに荷物を積んで、私とタリイも荷台に乗り込んだ。
トミーが助手席のドアをあけると、ユミコさんは「私も荷台がいい!」と言ってタイヤの上に足をかけた。上から私とタリイがひっぱりあげる。
がたぼこ道を左右に揺れながら、ピックアップトラックはゆっくり坂を下りていく。
家の前で父さんたちがまだ手を振っている。ユミコさんも大きく手を振り返す。父さんたち三人の姿がだんだん小さくなっていく。
それを見ていたら、私はまるで自分が見送りされているような気分になって、ちょっぴりナーバスになってしまった。私がナオミ姉さんみたいにこの島をでていく日がきたら、こんなに温かで、寂しい光景が目に焼きつくのだろうか。
舗装された幹線道路にでると、ユミコさんが大空を見上げながら声を張り上げて言った。
「マリちゃんの家族って、ほんと最高!」
風切り音とユミコさんの声がまじって、ジャングルの緑と一緒に、ひゅーん、ひゅーんと飛んでいく。
私は意味がわからない顔をしてみせたけれど、ユミコさんは私にはかまわず「いいな、いいなあ」と声を張り上げた。
「たくさんの家族がそばにいるって、幸せよね」
ユミコさんは、私の顔を見ながらそんなことを言った。
小さな国際空港は出国する外国人でいっぱいだった。そのほとんどがダイビング用の大きなキャスターバッグを引いている。みんなよく日焼けして、顔や手足が真っ赤だ。なかには脱皮の途中みたいに、肩から二の腕までぼろぼろに皮がむけている人もいる。そのなかで、ユミコさんだけが異様に真っ黒だった。島の人と見分けがつかない。
イミグレーションにはマシュウの顔が見える。私たちは手をあげてそちらに挨拶した。
「トミー、いろいろありがとう。楽しかったわ」
ユミコさんがトミーに左手を差し出した。
「ユミコさん、あのー。ゴメンナサイね」
トミーが日本語で言った。漂流してケガをさせたことを気にしているのだろう。
「ううん、最高の体験だったわ。東京じゃ絶対に得られない大切なことを、みんなからたくさん教えてもらった。ダーイジョーブ!」
トミーはテレながらユミコさんと固い握手をした。
ユミコさんはタリイの小さな頭に手をおいて、柔らかな髪をぐしゃぐしゃっとなでまわしてから、腰をかがめて弟のほおにキスをした。私は自分の順番になるのが悲しくて、思わず下を向いた。今すぐこの場から走り去りたいような気持ちだった。
ユミコさんは私の両手をとって「マリちゃん、またね」と、ぎゅっと力を込めて握った。その力は「約束ね」と伝わってきた。私はなんにも言葉がでてこなかった。なぜか、ユミコさんと永遠のお別れのような気持ちになって、胸がつまった。
「だあいじょうぶ。またすぐに会えるわよ。今、約束したじゃない」
ユミコさんは私の気持ちを読みとったみたいに、明るく笑った。
きっとほんとうだ。ユミコさんはまた私の家に帰って来るだろう。
「じゃあね。みんな、ほんとにありがとう。元気でね!」
手を振って、ユミコさんはマシュウが待っている出国審査のほうへ歩きだした。
その後ろ姿は、おばあちゃんが好きな、カリントウみたいに黒くて、細くて、りんとしていた。
●神さまの芽
ユミコさんが帰ってしまってからしばらくの間、私の家は空洞ができたみたいに寂しかった。朝起きても、あのへんてこりんなパラオ語の挨拶が聞こえてこないと、拍子抜けしてしまう。それでも村の穏やかな暮らし、静かな毎日は変わらずに過ぎた。
私はあの漂流の日以来、うちの畑でとれるフルーツを、飽きて捨てたりしなくなった。
漂着した浜で、トミーがとってくれたヤシの実の果肉ゼリーを最後の一口まで手ですくって食べているときに、私はこの家の庭や畑にたわわになっている、モンキーバナナやパパイアや、オレンジやシャシャップの実を次々と思い浮かべた。手を伸ばせば届くところに食べ物が実ることがどんなに幸運なことか、母さん手製のタピオカのお菓子が、どんなにおいしいものかも。
そうだ、あの日の朝のことをまだ話していなかった。
私たちが密りょうボートに引かれて海を渡っていた頃、父さんや村の人たちは、何十艘ものボートで捜索にでていたらしい。
マシュウやトミーの友だちや、それになんと、例の登記簿事件の地主の息子たちまでが、ユミコさんがいなくなっては一大事!(入るものも入らなくなると、また見当ちがいなことを考えたみたいだ)と捜索に参加したそうだ。
だから、ユミコさんはこの島ではちょっとした有名人だ。
私はあの不思議な声を聞いたすぐあとは、林のなかの大木や、マングローブの森に近づけなかった。
でも今はもう怖くない。あの低い声、デレブたちは、私たちへのメッセージだったとわかったから。
海のサンゴのこと、魚のこと、マングローブの森のこと、木や葉っぱや、カニやエビや、この世界に生きているすべてのものはつながっていることを、デレブは私たちに伝えたかったんだ。サンゴ礁とマングローブの森が、私たちの島を何千年も守ってくれていることを。
……ほんとうのことを言おう。
これはおばあちゃんが教えてくれたことだ。
あの晩、私がデレブの声を聞いたあの夜。おばあちゃんは隣村のハナコおばあさんの家まで行って、神さまにお祈りをしてくれた。ハナコおばあさんは呪術や祈祷ができる村で最後の一人だから。おばあちゃんは、私たちが無事に帰れますようにと、ずっと夜更けまで祈っていた。シスの葉を握りながら。
あとでそのことを父さんから聞いて、私は、心がすーんとした。あのときのおばあちゃんの声は、ほんとうの声だったんだ。
だから私はもう怖がることはないと思った。島のデレブと約束をしたようなものだ。
そんなこともあって、近頃私は、自分が暮らすこの村や、島や、海や、森が、今までよりずっと大切に感じている。弟や、父さんや母さん、おばあちゃんや、離れて暮らしている兄さんと姉さんのことも。
私も少し大人になったのかな、なんてね。
そうそう、もう一つ話しておかなくちゃいけない。
私がこぼした涙はマングローブの種子になって、泥に突き刺さったんだ。シュッという音をたててね。
おとといヤスじいさんの家について行ったときに、小屋の前に広がるマングローブの森に、勇気をだしてちょっとドキドキしながら踏み入ってみたんだ。そうしたら、泥に刺さった種子から鮮やかな緑色の芽が伸びていた。あの木は種子を泥に突き刺してすぐに根を張って成長するんだって。これはヤスじいさんが教えてくれたんだけどね。
自然のしくみって、ほんと、すごい。
「おねえちゃーん、早くう。おいてっちゃうよー」
あっ、タリイが呼んでいる。
「今行くー!」
これからトミーに送ってもらって、タリイといとこたちとガツパンの滝に泳ぎに行くんだ。
今日はほんと、いい天気。
~おしまい~
■あとがき
最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。「パラオのマリちゃん」は1987年から2003年の間にパラオ諸島で実際に私たちが体験したエピソードをもとに書き下ろしたものです。加筆、編纂に長い時間をかけて、ようやく完成することができました。そして次の物語、ミクロネシア・ヤップ島を舞台にした「ひとりの旅立ち(仮題)」は完成次第アップロードする予定です。 いしいきよこ