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第七章 tradition・art

伝統・芸術

ミクロネシアで鑑賞できる伝統・芸術は、大きく分けると、建築物、舞踊、工芸品だろう。
現代まで保存されている建築物は島の習慣を色濃く残し、歌や踊りは古来の物語を今に伝承している。
特に、民族衣装をまとって天や地に捧げるように歌い踊るヤップ島の男達の踊りは圧巻!
歴史や風習を表現し今に受け継がれた伝統・芸術は、海を渡った人々の魂が宿っている。

■伝統建築

​ 島じまでは、口伝承はもとより、何かにつけて人に相談すること、話し合うことは、古来から社会生活の一部として重要だった。それが「集会所」という建物の存在によく現れている。 

 集会所は島によって目的は様々だが、村の人々の話し合いや首長会議の場、人生儀礼や宴会場として、あるいは漁労学校や、来賓の歓迎式を行ったり、宿泊などに利用されてきた。ミクロネシアだけでなくオセアニア各地にはこういった集会所が広く分布している。

 離島の島々では航海用カヌーをしまって置く「カヌー小屋」があり、男たちが集って話をしたり酒を飲み交わしたり。村人が集まる多目的ホールといった感じは日本でいう公民館のようなもの。

 また、冠婚葬祭などの伝統儀式が行われることもあり、ポンペイやチュークではパンノ実やヤムイモの収穫祭に首長を招いて宴を催す場所になっている。 

 

​ ミクロネシアには大きく分けると二つのタイプの集会所がある。一つは男性しか立ち入れない性別タブーがある集会所。これが通称「メンズハウス」と呼ばれるもので、ヤップ島の「ファルー」とパラオ諸島の「バイ(通称アバイ)」。もう一方は、老若男女が集まる宴会場のようなもの。これらはどれも村の中心的な役割を担った。 

 

 では、なぜヤップ島のファルーとパラオ諸島のバイは男性しか入れないのか。それは、航海術など秘事の口伝や村内政治の場といった「男の世界」であったからだ。正確に言えば、昔はすべて女人禁制だったが、現代では観光客が見学できるような集会所は性別タブーも消えている。地元の女性が中に入ることもできるし、もちろん観光客が見学することも可能だ。 

 

 あるパラオ人の話によると、バイの出入り口の軒が低く作ってあるのは、屋内に高位な首長が座っているため厳粛に低頭して入所しなければならないためという。バイをよく観察すると、そういった昔のしきたりが随所に見られて面白い。 

 例えば、バイの床にはところどころに小さな三角の穴が開いている。これらはビンローチューイングをしたときの唾を吐くため、あるいは、話し合いが長時間に至った場合などには座ったまま小用を足すためという。村の人々は何か相談ごとをしたり、世間話をするときに、とにかくたっぷり時間をかけて話す。それがチーフやリーダーなどお偉方の話し合いともなればなおさらだ。  

 

 ヤップ島の長老からも同じ話を聞いた。

 ファルーにも同目的の小穴が開いていたというのだ。バイの中で何日間も「缶詰状態」で話し合いがもたれた昔は小用もそうするしかなかったわけで、古来の男達はフンドシ姿であったのだから、想像するとこれは非常に便利だったかもしれない。 古代ロマンあふれる絵物語が書き記された、バイの現実的な秘話である。

■伝統様式が残るヤップ島のメンズハウス

 ヤップ島の集会所は、ヤシ葺き屋根、竹材の座敷、ヤシ縄で組まれた柱など昔ながらの建築法を残す。サンゴの石を積み重ねた土台の上に柱を立てた構築で床下がなく、屋根はヤシ葺きが多い。伝統カヌー同様、釘を1本も使わずに建てられ、柱や梁にヤシ縄を編み込んで装飾した幾何学的文様は見事。
 ファルーは漁
労活動に使われるため、海に面した石積みの上に建てられている。壁がふさがれた造りの外観は閉鎖的な雰囲気で、秘事を伝承する場であったことがよく分かる。
 一方ペバイは、石の土台上に支柱を立てて屋根を乗せただけのオープンな造り。こちらは壁がない建築様式が特徴で、海辺ではなく村の入り口や村のなかに建てられている。
 
 ヤップ島には太平洋戦争以前は各村に集会所があったが、戦火で燃えてしまったり、日本軍が焚き付けの材料に壊したりと相当数が失われたという。現存する多くは戦後に再建されたものばかりだ。
​ 村へ行けばまだ希少な建築様式が見られるが、ヤシ葺き屋根とヤシ縄で組んだだけの造りは台風に弱い。強風雨が続くと簡単に潰れてしまうのが難だ。
 1948年に再建されたヤップ本島オカウ村のペバイも、完成度の高いベチアル村のファルーも、残念ながら過去の大型台風で崩れてしまった。壊れるのはすぐだが造り直すにはかなり時間がかる。伝統を色濃く残すヤップ島と言えど、入村料などわずかな収益では補修費用もままならず、昔ながらの集会所を維持、存続するには首長たちも頭をかかえているようだ。

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■アートな装飾絵が見事なパラオ諸島のバイ(アバイ)

パラオ諸島のバイは装飾に凝った造りで有名だ。屋根の切妻部分、入口の周囲から内部にいたるまで、カラフルにペイントが施されている。

 バイは建物の中央に支柱がないので梁を多く用い、その梁にもびっしりと人や生物やカヌーなどが描かれている。文字を持たなかった人々が口伝で島の歴史を残すために建物の木部に浮彫り、筋彫りなどの彫刻を施しそれに合わせて彩色した絵物語という。

 昔は、パラオ諸島を構成する主要な地域のすべてにバイがあったというが、古来の建築様式が見られるのは1990年代に再建されたバイを含めても、パラオ諸島最大の島、バベルダオブ島のアイライ、マルキョク、アイミリキの3つの州に建つ3棟と、コロールの町にある「パラオ・ナショナル・ミュージアム」のレプリカしか現存していないようだ。 

 

 古来、バイの建築は他村の者に依頼するのが習慣であったという。

 土台、柱、梁、壁、屋根と各部分ごとにそれぞれ専門の職人が造り、最後に仕上げる「絵物語」は、島の伝説や風習に詳しい長老が取り仕切ったそうだ。

 昔ながらの建築様式を残すバイは、切妻壁や破風、梁などに、魚類、鳥類、人間、カヌー、無人島といったパラオらしい絵物語がいろいろペイントされている。どれもアーティスティックでロマン溢れる絵ばかり。そして、この絵がパラオ諸島の名物「ストーリーボード」にも彫られていることも興味深い。

※パラオ諸島のバイは、「アバイ(パラオ語の接頭語「ア」がつく)」や「バイズ(英語で複数のバイ)」とも呼ばれる。

​■伝統舞踊
ミクロネシアの伝統舞踊は、島によってずいぶん趣が違う。おしなべて言えば、ミクロネシアはタヒチアンダンスのようにハイビートで、キレのいい楽器のリズムに合わせて踊るのではなく、「謡い」とステップで成り立つ、素朴で野趣あふれる踊りが中心だ。
 
 伝統舞踊は現代も社会のなかにしっかり息づき、自分達のアイデンティティーのために継承している島もある。
 たとえば、ヤップ島。
 迫力がありワイルドなダンスの代表格に挙げられるのが、ヤップ島のメンズダンス。
​ ヤップでは文字を持たない時代から踊りと謡いは島の歴史を伝える一つの手段であった。民族の「道」や「歴史」が歌に刻まれ、伝承されて今日まで残った。しかし残念なことに、多くは宣教師や他国の統治で禁止され、失われてしまったという。今ある古くからの踊りはごくごく一部だそうだ。

 しかし、それでもヤップ島のダンスはすごい。
 一般公開されていない特有の踊りが村のなかで脈々と受け継がれている。それは、島の大きな祭事「ヤップデイ」などに、村ごとにダンスの品評があるため、誇り高きヤップ人は「我が村の踊りが一番!」と、各村で独自に練習に励む。対抗心の強いヤップの、特に男達は「でき」を競うダンスに強い闘志を燃やす。それに加えて、傍観者の席に座る長老たちの踊りを見る目が厳
しく、より完璧なダンスを披露しようと一層熱心に練習するのだ。

 そのヤップダンスとは、男性の立ち踊り「ガスレウ」や、座ったまま踊る「パルガッブト」、激しく竹を打ち鳴らすバンブーダンス「ガメール」など何種類かあり、なかでも代表的なガスレウは、圧倒的パワーがある。数十人の男たちがドスのきいた掛け声をどどろかせ、ドンドンと地面を踏み、地鳴りのような響きとともに踊る。

 踊り方には、身振り手振りの一つ一つに意味があり、詠唱される歌には過去の歴史が刻まれている。航海にまつわる話、征服された歴史、宗教的なできごとなど、島で起きた様々な事柄が物語になって歌われてきた。そのため、すでに使われていない「忘れられた言葉」も歌の中に織り込まれているという。実際に詠唱している「ソリスト」さえ詩の意味が解らないものがあるそうだ。口伝された詩をそのまま丸暗記してきた結果だろう。

■メンズダンスの神髄

 長老を前に一列に並んだ数十人の男たちが、リーダー(マガズパ)の手拍子に合わせ一斉に手打ちを始めると、一人のソリストが物語を力強く詠唱し、そして、男たちは呼吸を一つにして踊り始める。もともとは「出漁の踊り」であったというガスレウは、男たちが遠い彼方を差すように腕を上げ、手や指を振動させるジェスチャーが見せ場である。筋骨隆々とした筋肉を震わせることが男の自慢であるのだ。

 始めは謡いに合わせゆったりしたリズムで、そのうち男達の掛け声が轟き、踊り方が次第に過激になっていく。詠唱と踊り手の息がピッタリ合い調和がとれると、ダンサーは遠くを見つめながら次第に自分の世界へと入っていくようだ。
 
 ガスレウには、腰を上下に動かす性的な踊りがある。男の激しい性の渇望のようなジェスチャーだ。そのため昔は女達は見ることができなかった。今でこそダンサーの前に陣取って歓声をあげながら見学している女達も、物陰からこっそりと覗き見する「禁断」の踊りであったわけだ。
 
 男達の声がいっそう強く、大きくなり、腰を前後に激しく振り、息を荒くした男たちが気迫ある立ち振る舞いをすると、ガスレウの踊りは最高潮に達する。それを間近で見ている女性たちは、セックスアピールするジェスチャーを直視する恥ずかしさから、大騒ぎして顔を伏せるのだが、それでもしっかりと視線は外さない。恥ずかしいがそれでも見たい。これが、踊りが残ったもう一つの理由だろう。覗き見る異性の視線がなければ、メンズダンスはとうに消えていたかも知れない。

 こうして激しく高揚したヤップダンスは、フィナーレに相応しい迫力ある掛け合い、「イッポン、イッポン」と数十人の男達がいっせいに力強くかけた声と共に、スパッといさぎよく終った。

 その場で見ていた者は、圧倒的な迫力の余韻にしばし呆然とする。それまで激しい踊りと掛け合いを身体全体で受け止めて見ていたため、急に静まり返った村の広場に唐突に投げ出されてしまったような感覚だ。しばし一列になって去っていくダンサーの後ろ姿をただじっと見つめるだけ。その男達の後ろ姿は、遠い過去のヤップ島に帰っていくような勇姿であった。
​■芸術
*生みの親は日本人芸術家

 パラオ諸島のバイの絵物語は、文字を持たなかったパラオ人の祖先が、この土地に起きた歴史的事件や神話、伝説などを絵に残し、語り継いできたものといい、これらは後に、日本人芸術家、土方久功(ひじかたひさかつ)の手によってパラオ名物ストーリーボードに生れ変わった。
 
 ミクロネシアの木彫りは離島民が作っていることが多いが、パラオのストーリーボードは、コロール島(主島)で作られており、その技術をパラオ人に教えたのは、画家であり彫刻家、そして民族誌家でもあった土方久功という日本人だ。

 鉄のように堅い「鉄木」にパラオの歴史や伝説を浮き彫りにした
ストーリーボードは、パラオ人の民間信仰を表現したものが多い。伝承がリアルに盛り込まれ、芸術品としても名高い。
 
 そして腕が立つ木彫り職人は、以前「囚人であった」人に多いという。パラオでは刑務所に入ると彫刻を習うため、刑務所を出る頃には「ムショ暮らしをしたので手に職がついた」となるわけだ。もちろん職人が全て囚人であったわけではない。 
 
​ ストーリーボードは高価な土産ものとして売られている。たいがい100米ドル以上で、大きく精巧なものは一、二桁値段が上がる。当時パラオパシフィックリゾートホテルの売店には究極の一枚があり、ピーターという専門職人が湾曲した板に掘った作品は1000米ドルもの値がついていた。

 また、外国から特注を受け畳一枚もある特大ボードの制作をしていたパラオ人は、「仕上げるには数年がかりだ」と胸を張って言った。毎日一定時間作業をしているようには見えなかったから、もっと専念すれば制作期間が縮むだろうにと思うのだが、島特有の観念で「時間をかけてこそ値打ちが上がる」という一面もあるようだ。
 
 土方久功がパラオ人の弟子たちに木彫りを教えてからすでに半世紀以上が経ち、ストーリーボードはパラオの特産品として定着した。何より更生したパラオ人が生活の糧として彫っているのだから、土方久功の精神は今もパラオに深く生き続けていると言えるだろう。

 
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