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第九章 wonder・mystery
不思議・謎
島に存在する石像と言えば、イースター島の巨大な人面像モアイがあまりにも有名だが、じつはミクロネシアの小さな島々にも石像や石造遺跡が現存することをご存じだろうか。
広大な海域に散らばる島じまに残された遺跡は、大きく分けると、海域の東、西、北の3つのエリアに存在し、エリアごとに造られた形や当時の用途(推測による)が異なるのが興味深い。
謎多き、そして謎のまま島々に点在する遺跡の一部を紹介しょう。
一つはミクロネシアの東側エリア、ポンペイ島とコスラエ島にある巨大な石柱を井桁状に組み上げて造られた、要塞のようなナン・マドール遺跡とレラ遺跡。
二つ目はミクロネシアの北エリア、グアム、ロタ、テニアン、サイパンの各島で見られるラッテ・ストーン、タガ・ストーンと呼ばれる石柱遺跡。こちらは切り出した巨石を縦に使い、建物の土台として利用したような形だ。
三つ目はミクロネシアの西エリア、パラオ諸島にある人面石柱の数々。主にパラオ諸島の北に位置するバベルダオブ島北部で見られる。
これらの遺跡群は、何のために造られたものか未だはっきりと解明されたものはなく、例えばパラオ諸島にある人面遺跡の一部をカーボンデーティング(放射性炭素年代測定法)で調査した結果、紀元200年~1400年のものと言われるほど年代に幅があったという。
島じまに点在する古代遺跡は、謎多き巨石文明として現代に引き継がれ、大抵はロマンをかきたてる観光名所となっている。
■ポンペイ島の古代海上都市ナン・マドール
ミクロネシアの中で最もな有名な遺跡がナン・マドールだろう。当時組まれたであろう形のままで自然の中に残されているため、見る者を一瞬にしてタイムスリップさせる。船に乗って海からナン・マドールへ踏み入ると、巨大な玄武岩を積み上げた様子は圧巻で、謎に包まれたロマンを五感で体感できる。
ナン・マドール遺跡の中心にある王の墓「ナンタウアス」のすぐ先には、防波堤と思われる石壁がある。東から吹く貿易風によって強く打ち寄せる波を防ぐためと考えられるが、不思議なのはなぜわざわざ強風が吹く「東」に遺跡があるのかということだ。
一説によれば「カヌーを自在に操る海の民は、陸に都市を構築しても心は常に海を意識し、東方からすべてをもたらす貿易風が最初に当たり、朝日が最初に光を投げかける『この地』に重要な意味を持ったのではないか」とある。
そして「外洋への出口がすぐ目の前にあり、干潮でもカヌーを出せる都合のよい場所であること。ナン・タウアスで行われた儀式の『音』は東風に乗って背後の家々の窓へ伝わったろう」と。すばらしい発想だ!
こうした周囲の自然と地理を理解しながらナン・マドールを観察すると、謎の海上都市はぐっと面白くなってくる。
ナン・マドールを最初に発掘調査したドイツ人学者が不幸な最期を遂げたと伝えられる話や、地元の人たちが恐れている様々な理由など、伝説以外にも遺跡にまつわる言い伝えは多い。
だが、何にもまして謎なのは、「すべてを話すと死ぬ」と信じるポンペイの人々が、「外」の人間にこの遺跡についてどれくらい知っていることを語っているのだろうかということだ。そんなことも頭の隅に置きつつ見学すれば、よりいっそう興味深いものになるに違いない。まずはナン・マドールに自分の足で立ち、見て、触れて、思いを馳せてみてはいかがだろう。
以下、2016年に世界文化遺産に登録されたポンペイ島のナン・マドール遺跡をご紹介します。
■謎の巨大遺跡は呪いの場所か
著述:斎藤弘之
ポンペイ本島、正確には島の南東に隣接しているチャムエン島の浅瀬にナン・マドール遺跡がある。現在は、その大半がマングローブ林に覆われているために全容を一望できないが、広さは70ヘクタールあり、ここにある九二の人工的に作られた小島から構成されている。ちなみにナン・マドールとはポンペイ語で「天と地の間の場所」を意味し、ポンペイ語で「Nan Madol 」だから、正確には「ナン・マトル」が正しい。
この遺跡は1931年、ジェームス・チャーチワードの『失われた大陸』で12000年前に太平洋に水没したムー大陸の都だとされ、一躍注目された。ただし、この説が科学的に根拠のないものであることは、周知のとおりだ。
実際に訪れてみると、その威容にまずは圧倒される。観光で訪れる場合、王の墓「ナンタウアス」に案内されることが多いが、高さ8メートルに及ぶ石壁、四隅に配された50トンを越える巨石、そして何より膨大な数の石が井桁状に規則的に積み上げられたことの美しさに心打たれるに違いない。驚くべきことにこのような石造建築物が、周囲のマングローブ林のなかに延々と続くのだ。
ポンペイ人に「ナン・マドールはどのように造ったのか」と尋ねてみるといい。彼らは誇らしげにこう答えるだろう。「おれたちの祖先が魔力を使って、石を空を飛ばして運んだのだ」と。
しかし、ここで決して笑ってはいけない。彼らはまるで宗教に対してかのように真面目にそう信じているのだ。その証拠に、ナン・マドールは「呪いの場所」という理由から、彼らはこの世界有数の遺跡に近づこうとさえしない。さらにはポンペイにあるキリスト教系の私立小学校では、毎年ナン・マドールへの遠足を実施するのだが、親が子供がナン・マドールに行くことを認めないため、毎回わずかな子供たちしか参加しないという。
ナン・マドールは形の上では既に過去のものとなった「遺跡」かもしれない。しかしポンペイの人々の心の中では、未だ確固たる存在感を示している。
現地の伝説では、ナン・マド-ル遺跡の最期を次のように伝えている。「昔々、カチャウ・ペイティー(太陽の沈むところ)から、オロシーパ、オロショーパの2人の兄弟がやってきた。彼らはポンペイに中心になる場所がないことに気付き、その建設を始めようとする。何度か失敗したのち、現在の場所に天と地の間が階段で結ばれていることを見た2人は、この地に建設することを定める。これが名前の由来だ。
初めは懐疑的だったポンペイ人たちも、次第に好意的となり建設に協力していった。巨石は2人の持つ魔術によって、空を飛ばして運んだとされる。残念ながら兄のオロシーパは、完成を待たずに亡くなってしまうが、弟のオロショーパがこれを完成させ、初代のシャウテレウル王となった。このシャウテレウル王朝は16代続いたが、2代目以降は暴君が多く、好物のシラミを献上しない者を死刑にした王、人間の肉を食べる王、人間の肝臓が好物の王妃など、ポンペイの人々を苦しめた。
16代シャウテモイ王の時代、王妃と浮気したとの罪で雷神ナーンシャプエを一旦幽閉するが、彼は脱出しカチャウ・ペイタック(太陽の昇るところコスラエだと考えられている)へ逃れる。やがて彼の息子イショケルケルは父の仇を討ち、ポンペイの人々を暴君の圧政から救うため333人の家来と共にポンペイへやってくる。
当初は来客を装っていた一行であったが、ある夜奇襲をかけてシャウテモイ王を討ち、ついにシャウテレウル王朝を滅ぼすこととなった。そして、イショケルケルは初代のナンマルキ(酋長)に就く・・・と、伝説にはあるが、近年の考古学者の調査結果は伝説とは大きく異なる遺跡の姿を推定している。
まず、92ある島々が同時に建設されたのではなく、かなりの時代幅をもって逐次建設されていったということだ。
放射性炭素年代測定法による現在最も古い「石組み」の年代は、ワサウと呼ばれる島で確認されてる西暦600年ころのもの。おそらくこの頃から建設が始まったと考えられる。
一方、タパフからは西暦200年代にあたる人間の生活の痕跡が見つかっているので、ナン・マドール以前にもポンペイ人がこの遺跡の周囲に暮らしていたことがわかる。
王の墓「ナンタウアス」に用いられているような柱状の玄武岩は、一見すると特殊な技術によって柱状に切り出しているかのようだが、実際には自然に存在する石の結晶体(柱状節理)だ。ただ石の輸送方となると、カヌーにより海上を通って運んだのであろうと推定されているにすぎない。この方法で50トンを越える巨石を運べるかというと、首を傾げざるえない。さらに、これだけおびただしい数の石を、島のいったいどこから切り出したのかという疑問もまた、明確な答えが得られていない。
あれだけの石造建築を作る現実的な方法を考えるより、むしろ全てが魔術の力によって造られたと思った方が合理的に感じられてしまうほど、これらの遺跡は想像を絶する規模だ。
19世紀に至るまで、西洋とも東洋とも文化的接触がなかった太平洋の小さな島々に、このように独自の文化と文明が発生、発展し、つい最近まで継続されてきたことに、個人的には驚きを禁じ得ない。
■天空から降ってきた遺跡は隣のコスラエ島にも
観光名所がほとんどないコスラエ島で、唯一案内される場所がレラ遺跡だ。遺跡はコスラエ島に隣接するレラ島にあり、敷地は島の約40パーセントにあたる22ヘクタールもあり、驚くことにそこは住宅地となっている。
レラ遺跡はナン・マドール遺跡と比較して論じられることが多い。本島に隣接する小島のサンゴ礁の浅瀬に建設され、夥しい数の柱状玄武岩を使用し、規則的に井桁に石を積み上げる方法などは、両者の間に何らかの関係があったことを想像させられる。
ただしレラ遺跡は「運河」が遺跡中央を流れるものの、石の壁で区切られた区画の連続で構成され、ナン・マドール遺跡のように独立した小島の集合体ではない。
墓の形もサンゴをピラミッド型に積み上げ、その頂上に主体部(遺体を葬る場所)を設けるというようにナン・マドール遺跡の場合と異なる。
最近の考古学調査では、レラ遺跡の建設が始まったのは、西暦1250年頃からだと推定されている。その後、西暦1400年頃にはコスラエ島全体がレラ王朝(と仮に呼ぶ)の下に統一され、レラ遺跡の発展が始まる。
そして、西暦1650年頃までに王の墓、6.3メートルの壁で囲まれた王の住居など、レラ遺跡の中心部が建設されている。これらの建設の背景には高度な計画性と、多くの労働力が動員できた強力な支配力の存在が想定される。
さらに、レラ遺跡は西暦1800年頃までサンゴ礁の浅瀬が広かる東へ拡大して行き、その全盛期を迎える。しかしその頃の数度にわたる台風で大きく破壊され、キリスト教を初めとした西洋文化の流入により、次第にコスラエの中心地としての役割を終息させていった。
この遺跡もまた石の産出地や輸送と建設の方法についてなど、未解明な部分が多いミステリアスな遺跡であることは違いない。
レラ遺跡建設についてコスラエの伝説も興味深い。
伝説にはいくつか種類があるが、最もよく知られたものは、レラ遺跡からみて反対側の村に住む、サタフとルパンコスラヤワルという2人の魔術師の話だ。
レラ遺跡を建設するにあたってサタフが玄武岩を、ルパンコスラヤワルがサンゴ石を運ぶことになり、2人はそれぞれイカダを作って呪文を唱えると、イカダの上は空を飛んで集まってきた石で一杯になった。しかしイカダで石をレラまで運ぶ際、ルパンコスラヤワルのイカダが座礁してしまったので、先にレラに着いたサタフは長い間待った後、独力でレラを完成させることにした。もちろん彼の労働力によってではなく、彼の魔術によってというものだ。
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